【山名豊国】室町幕府の名門

まず最初に紹介致すのは山名豊国殿である。

いつもわしの戦国がたりを読んでくれておる者はピンと来たであろう。

そう、あの山名家じゃ!

前回まで紹介しておった応仁の乱の主要人物で西軍の大将である山名宗全殿の子孫である。詳しくは宗全殿の曾孫のさらに孫に当たる人物じゃな。

皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの刻である! 夏へと移りゆく過ごしやすい今日この頃であるわな。三月、四月と、年度の変わり目から黄金週間にかかる忙しい時季が過ぎてゆるりと息をつける者も多いのではなかろうか。旅行なんぞを楽しむにも誂(あつら)え向きで、皆が活気づくこの春の時季であるが、我らの時代にとってもあることが盛んに行われる時季だったのじゃ。そのあることとは、……戦である!

山名家は鎌倉幕府の討幕、そして建武の新政にて活躍した新田義貞様の血を汲んだ名家で、室町幕府において大きな力を持っておった。

全盛期は日ノ本六十余州の内、12の国を治めておったことから「六分の一殿(ろくぶのいちどの)」の異名で呼ばれておったぞ!

じゃが、応仁の乱を経て力を失い豊国殿の時代には但馬と因幡を辛うじて治めておる状態であった。

戦国中期の畿内と中国地方東部はかつての名家や守護大名、新たに台頭した勢力ら多くの戦国大名が激しく争っておった。

三村や浦上といった領土を圧迫してくる敵はもちろん、毛利や尼子、そして進出してきた織田家といった大きな勢力の間で苦心したのじゃ。

毛利と織田家の関係が良かった時代には両家に属し、毛利と織田の国境が山名家の領国に定められて比較的安定しておったのじゃが、両家が争い始めると難儀することとなった。

紆余曲折を経て、一応毛利家に属した山名家の居城である鳥取城は、羽柴秀吉率いる織田軍に囲まれることとなる。

仕官を断り放浪

すると何を思ったか豊国殿は、手勢とともに城を抜け出し秀吉のもとへ出向いて降伏したのじゃ!

争いを嫌ったが故の判断とも言われておるが、そもそも織田家に属す予定だったところを親毛利派の家臣たちの勢いに勝てず、致し方なく城を出たとも考えられておる。

ちなみに、豊国殿が城を出たあとは毛利派の武将が城の主となる。そして再び秀吉に攻められたのじゃが、これが有名な鳥取城の兵糧攻め「鳥取城のかつえ殺し」とも呼ばれる凄惨な戦いとなったのじゃ。

 

話を戻すが、何にせよこれにて大名としての山名家は滅亡することとなったわけじゃ。

じゃが豊国殿のらしさが出るのはこの後である。

織田家に降った豊国殿には秀吉から仕官の打診があったのじゃが、これを断って浪人となったのじゃ!!

そののちは日ノ本を放浪しておったために足取りが掴めぬ時期が長いのじゃが、秀吉や徳川家康殿とは親交があって秀吉死後の形見分けにもちゃっかり参じておったりする。

関ヶ原の戦いでは東軍に属したことで徳川殿に取り立てられ、大名復帰には及ばなかったものの家は存続していくこととなった。

飄々とした人物像がわかる逸話と戦の才覚

この徳川殿のもとで過ごしていた頃におもしろき逸話が残っておる。

ある時、徳川殿は豊国殿に対し「貴殿の先祖は六分の一殿と呼ばれるほどの権勢を誇っておったが、貴殿は所領を失い他家の世話を受ける身である」と苦言を呈し、さらには「天下の粗忽者(愚か者)」と揶揄したことがあった。

徳川家も山名家と同じく新田家の血を汲んでおると主張しておるで、同族の豊国殿の武士らしからぬ行いに思うところがあったのであろう。

じゃがこれに対して豊国殿は特に気分を害することもなく「六分の一殿とまでは言いませぬが、自分も百分の一殿くらいには言われてみたいですな」と返し徳川殿を苦笑させたそうじゃ。

豊国殿の支配欲や野心の無さと飄々(ひょうひょう)とした人柄がよくわかる逸話であろう。

じゃが、豊国殿は混沌を極める情勢の中、奪われておった領土の奪還し、策謀を持って近隣諸国に対抗するなど当主としてはその才を見せておって戦下手とは言い難い。

戦下手な戦国武将は決して珍しいことではないが、豊国殿のように戦嫌いな戦国武将は中々に珍しいわな。

さらに豊国殿はかつての家臣を探し出して世話をしたり、室町幕府より下賜された羽織を長い間着続けておったりと、忠義に厚く芯のある人物であることも注目すべきところじゃ。

臆病故に、ではなく確(しか)と意思を持って貫いた武士らしくない生き方であったと言えるであろう。

【毛利隆元】偉大な父をもった息子

次に紹介致すのは毛利隆元殿。

中国地方の覇者で謀神の異名を持つ毛利元就殿の嫡男である。

隆元殿は能力が高かったのに、全く自信がなかった戦国武将なのじゃ!

ではそんな隆元殿の人生を追って参ろうではないか。

大内家に従属する国衆・毛利家に生まれた隆元殿は、主君である大内家のもとで人質として生活する。

幼き頃の境遇は、人質とはいうものの重要な家臣の跡取りとして十分な暮らしと英才教育を受け、武士としての武と教養を身につけたのじゃ。今川氏の人質として過ごした徳川家康殿と似通っておるな。

そして元服した折には主君、大内義隆殿の隆の字をもらって隆元と名乗ったのじゃ。

成長した隆元殿は毛利家へと戻って、父・元就殿の隠居によって23歳の若さにして毛利家当主となった。

その後も実権は元就殿が握り続けたのじゃが、その理由の一つが隆元殿に自信がなさすぎたことにあるのじゃ。「自分は生来の器量なし」と書いておったり、「名将には不遇な子が生まれる」と自嘲しておったりと自信のなさを吐露する書状がいくつも残っておる。

毛利家は源頼朝様の重臣・大江広元様の子孫なのじゃが、「偉大な先祖を持っているが、父・元就はそれすらも超えてしまった」と残しておって、偉大な父と自分を比較し自己嫌悪に陥っておったのじゃろう。

自信のなさから生まれた「三矢の訓」

これ程までに自信のない隆元殿であるが、内政にも戦にも才を発揮し、実に能力の高い武士であった。

自信のない主君の欠点として家臣たちの心が離れることがあげられるが、隆元殿はむしろ、隆元殿に忠誠を誓う直属の家臣たちが少なからずおって、人望という意味でも問題がなかった。元就殿という大きすぎる存在が居て尚、隆元殿自身に忠誠を誓う者がいたというのは他の戦国大名よりも優れていたとすら言えるやもしれぬな。

じゃが、隆元殿の弟である吉川元春殿や小早川隆景殿からは、自信のなさから頼りなく思われ軽視されておったようで、元就殿へ「弟たちに見下され、言うことを聞いてくれない」と嘆きの書状を送っておる。そんな様子を感じてか、元就殿が三兄弟に送ったのが兄弟の協力の重要性を説いた三子教訓状。今に伝わる「三本の矢」の逸話の元となった書状である。

元就殿からは戦よりも芸を好んだことに対して叱責されたり、自信の無さ故に判断力が無いことを指摘されておるものの、隆元殿の能力を認めておって親子仲は良いものであった。

戦国にありがちな親子の不仲や、名君と愚息のような関係性では決してなかった。

むしろ父・元就を尊敬するがあまり、その功績を自分の代で失わせてしまうのでは無いかと恐れておったんじゃろうな。

やる時は誰よりもやる男、現代だったらさぞや……

控えめで優しく自信のなかった隆元殿であるが、主君・大内義隆殿が家臣であった陶晴賢(すえはるかた)殿に討ち取られた大寧寺の乱の折、将たる器を存分に発揮することとなる。

陶晴賢殿に対して激しく憤り、元就殿に晴賢殿と戦うべしと訴えたのじゃ。

大内家を乗っ取った陶家と戦うことは毛利家の独立を意味し、兵力差も大きかったために元就殿は慎重になっておった。

じゃが隆元殿は家臣たちを味方につけて元就殿を説得し、日本三大奇襲で知られる厳島の戦いにて四分の一ほどの兵力で見事勝利し、ここに戦国大名毛利家が誕生したのじゃ!!

隆元殿としては人質時代に世話になった大内義隆殿の仇を討ちたい思いだったのであろうが、結果として隆元殿が毛利家を日ノ本随一の戦国大名となるきっかけを作ったわけじゃな。

やる時は誰よりもやる男、もはや自信が無いのが不思議な才覚である。

さらに隆元殿は側室を持たぬ愛妻家で非常に優しき心の持ち主でもあって、奥方に宛てた「特に用事はないけど家臣がそっちに行くから手紙を書いてみた」という微笑ましい手紙が残っておったり、元就殿が家臣に「隆元の孝行や信心は見事だが、この正直さでは戦国の世は生きていけぬ」と心配の手紙を送るほどであった。

わしの見立てであるが、今の世にいたら最も人気が出そうな戦国武将である!

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毛利家の当主として成果を残し続けた隆元殿は41歳で急死しその人生を終えることとなった。

元就殿は大いに悲しみ、この急死を毒殺では無いかと考え、関与が疑われる家臣を処罰した記録が残っておる。

隆元殿の死後に毛利家の石高が4000石ほど減少し、如何に優れた内政を行なっていたのかが世に示されることとなった。

弟の元春殿や隆景殿も兄の偉大さに気がつき、以後は確と毛利家を支えていくようになったそうじゃ。

その性格と短命によって、今の世では名が広まっておらぬが、隆元殿が長生きしておれば天下を取ったのは徳川ではなく、毛利家であったのではないかと言われるくらいに歴史好きの間では評価されておる。

最後に毛利家の居城、吉田郡山城を紹介致そう。儂(わし)が以前、訪れた折に写したものじゃ。

山城である吉田郡山城。険しい道のりじゃ。
山城である吉田郡山城。険しい道のりじゃ。
本丸跡。
本丸跡。
城下町が一望できる。
城下町が一望できる。

吉田郡山城は、隆元殿や元就殿の墓を含めた城の遺構が美しく残っておって、麓の『安芸高田民俗資料館』は魅力ある展示や資料を見ることが叶う。

此度の戦国語りを読んで気になった皆々は調べてみるが良い。

終いに

此度の戦国語りは如何であったか!

久方ぶりの人物紹介の巻であった。

此度はくせのある二人を紹介したのじゃが、まだまだ紹介したい武士は多くおるで、またどこかで話して参ろうではないか。

さて、中盤に差し掛かった『光る君へ』であるが、これよりさらに権勢を誇っていく道長様がどんな描かれ方をするかは実に興味深い見所である!

これからの展開も楽しみ参ろうではないか!

では此度の戦国語りはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)