「山城は冬に攻めよ」という格言がある。冬がベストシーズンだが、晩秋から春ぐらいまではok。その理由は二つあって、遺構が草に埋もれていないことと、気候がよく疲労度が低いこと。真夏、滝のように汗をかきながら登ったのに、石垣も堀も生い茂る藪の中、ということはよくある。なんのために登ってきたのか。「そこに山城があるから」と言いたいところだが、心身ともにダメージは計り知れず。雪がない場合に限るが、山城はやはり冬だ。
眺望抜群の砦が連携しゲリラ戦を支えた?
私が八上城を訪れたのはまさに真冬だった。数年前の1月、正月が明けたばかりの頃。粉雪がちらつき、麓の春日神社の手水鉢には薄氷が張っていた。
八上城は、丹波ほぼ一国を支配していた波多野氏の居城。1576(天正4)年に反信長の旗幟を鮮明にしたため、以後、明智光秀と丹波にて相まみえることに。最終的には降伏するが、一年半の猛攻に絶えたのだから、実戦力の高い名城といっていい。
比高は240mとなかなかだが、山道は幅も広く整備されている。春日神社の脇からの急勾配も、階段も設けられている。うっすら汗ばみながらぐんぐん登り、5分ほどで「鴻(こう)の巣(す)」と呼ばれる尾根の先端に到達。
八上城は、本丸からタコ足のように各方向へ伸びる細尾根に城域が広がっていて、「鴻の巣」もその一端。このタイプの山城の場合は、随所に見張台のような小砦が設けられている。各砦からの眺望はそれぞれ異なり、見えない角度を補完しあう関係になっている。八上城の場合、籠城戦でグルリと敵に囲まれていたはずだが、城下に迫り来る敵軍をどう見張っていたか、想像しながら歩くと面白さは一気に倍増する。
「鴻の巣」は、残念ながら現在は草木に覆われ眺望はない。そこから緩やかな登りを少し歩けば「下の茶屋丸」。ここが第1の眺望ポイント。城下に東西に伸びる国道372号は、かつての山陰街道だ。左手前には今登ってきた斜面が見える(西方からの敵の侵入を監視できるということだ)。幅の広い平地で、兵の駐屯にも都合がいい。
その先は尾根がダラダラと続く。かすかに「堀切?」と思わせる場所もあるが、判然とせず。そのうち勾配がきつくなるが、階段もあり道も広い。あっという間に右衛門丸に到着。
ここから本格的に城らしくなってくる。右衛門丸(うえもんまる)、三の丸、二の丸と曲輪が連続し、その間を見事な切岸(きりぎし)で遮断。登城路はそれを避けるように脇へ迂回している。
※切岸/斜面を人工的に削って断崖絶壁化したもの。
二の丸に足を踏み入れると、視界が一気に開ける。真正面の切岸上が本丸、左手奥が岡田丸だが、この3つの曲輪は事実上、一体化しているといってもいいだろう。二の丸と岡田丸間は、これといって障壁も落差もないし、本丸も天守台程度の広さだ。
それにしても、ここが城の心臓部のはずだが、やけにあっさりしている。本丸切岸の角度も(年月による崩れもあるにせよ)甘い気がするし、土塁や虎口(こぐち)らしき跡も見当たらず。右衛門丸~三の丸~二の丸の切岸が絶対防衛ライン、ということなのか。
あるいは、こういう考え方もできる。波多野氏が一年半もの籠城戦に耐えられたのは、一説には地の利を活かしたゲリラ戦を展開できたからとも。仮説だが、各砦からの眺望を活かして兵を動かし、少兵でも互角に渡り合う、という戦略だったのかもしれない。
※虎口/曲輪の入口。単に狭めるだけでなく、屈曲させ入りづらくすることも多い
さて、城といえば水ノ手だ。本丸から東へと下ってゆくと、谷間のような地形に竪堀に守られた「朝路池」が、今も水を湛えている。直径1.5mほどだろうか。
山中にしては相当の規模といえるが、現地看板には「落城の際、城主の娘・朝路姫が入水自殺し、又財宝を埋めたとも伝えられる」とあるが、さすがにそれは想像力がたくましすぎるだろう。まあ、城跡のこの手の伝説は、残念ながらだいたいがマユツバだ。
同じような想像力系スポットが、その先にも。八上城の戦い、最終的には波多野秀治・秀尚兄弟が生命の保証を条件に投降するのだが、信長の了解を得るまで城側の人質になったのが光秀の母・お牧(大河では石川さゆり氏が演じている)。ところが、信長は投降した兄弟を処刑。仕返しに城兵達がお牧を処刑。その現場が「はりつけ松跡」だ。
「跡」とある通り、松は現存せず、はたして本当にこの場所が現場だったのかも怪しい。そもそも、このエピソードは史実としても否定されている。とはいえ、「この悲劇で光秀が恨みを持ったのが、本能寺の変の遠因になった」という俗説もあり、大河ドラマでは取り上げられるはず。史実は史実として、物語を想像するのは自由だろう。
八上城の城域はかなり広い。はりつけ松から東北に伸びる尾根伝いに「芥丸」、最先端が「西蔵丸」。前者は篠山盆地ほぼ全体が見渡せ、後者は本丸を中心に、山頂~中腹がパノラマで見通せる。
西蔵丸から少し引き返し、道なりに下れば城下の集落に戻る。西から入り山頂を経て東へ、ぐるり八上城を一周したことになる。順調に巡れば2時間程度の道のりだが、私の城巡りは、やたら寄り道が多いため、お昼前に登り始めたはずだが、既に日が傾き山陰は薄暗くなっていた。
だがもうひとつ、寄り道したいところがあった。登城口の看板にあった「血洗池」という物騒な名前。水源池のようなイラストもある。
しかもそのすぐ上に「はりつけ松」。もしかして、血洗池のそばに松が現存しているのでは……という期待も高まる。そう思い、沢伝いに登り始めたのだが。
これ、ホントに道? 滑る枯れ葉に足を取られ、倒木をくぐったりまたいだり。土まみれになりながら登ること数分。
あった!
と思ったのも一瞬。「跡」って。「今は崩れて見られない」って……。
どうにか池っぽい窪みがないか見回すが、まるで見当たらない。ようやく木々の隙間に見つけたのがコレ。
いくらなんでも、これで血は洗えないだろう。
日没まで残された時間はごくわずか。城は攻め落としたが何かに負けた気分で、今来た道を引き返すしかないのだった。
『八上城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)