大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀の出身地は東美濃(現在の岐阜県東部)。が、地図を見ると、可児市と恵那市にそれぞれ「明智駅」がある。「明智城」「明知城」と、城も2つある。「2つあるけど、どちらが明智の城?」と、迷う必要はない。そこに城があるなら、行くしかない。どちらも攻め落としてしまえばいいのだ。

~明智城~ その真骨頂は「裏口」搦手道(からめてみち)にあった

というわけで、まずは可児市の明智城へ。木曽川中流、濃尾平野の東端に位置する明智荘を見晴らす山城。といっても小高い丘のような低山だ。麓からの比高はわずか80m。山城好きの経験則的に言うと、比高100m以下は登りはほどほど。「比高」とは、麓から城の最高地点までの標高差のこと。100mを超えると少し気を引き締める。200mを超えると覚悟を決め、300mを越えたら築城したヤツを恨みたくなる。

明智城は、1556(弘治2)年、明智光秀の叔父・光安が城主の時代に斎藤義龍に攻められ落城と伝わる。光秀の生年は諸説あるが、少なくともこの時点では、元服していたのは間違いない。合戦の詳細は不明だが、落城時、光秀もこの城にいたかもしれない。

大手門は冠木門(かぶらぎもん)で再現されている。

まずは城の表玄関、大手門からの登城路。勾配はゆるいが油断は禁物だ。谷底道の左手、東出丸からの落差は相当。登るほど狭まり、右手の中ノ曲輪と挟撃されながら城内へ。かつては両斜面ともに竪堀が掘られていたように、その痕跡はかすかしかない。

※曲輪(くるわ)/城の各区画のこと。「丸」とも。周囲に土塁や石垣が配されることが多い
※出丸(でまる)/離れた場所にある曲輪
※竪堀(たてぼり)/斜面に縦方向に長く掘られた堀。凸凹の急斜面を登るのは至難の技
左が東出丸、右が中ノ曲輪。

隘路(あいろ)を突破すれば二ノ丸曲輪。ここから本丸曲輪までは僅かな傾斜があるだけの平地。よく見ると、両曲輪の間には土塁の跡がある。城の遺構は、長年の堆積物にカモフラージュされることも多々だが、見逃してはいけないポイント。当時はもっと高低差があったはずで、城兵はその影に隠れながら迎撃していたはず。本丸を背に、必死の抵抗を試みた要所だ。

※隘路(あいろ)/通路として狭い、進行の難所
※土塁(どるい)/土を盛った防御壁。空堀と組み合わせると高低差がより出て強力に
二ノ丸曲輪の「七ツ塚」。落城時の戦没者を葬ったと伝わる。
わずかな盛りあがりの部分が本丸を守る土塁の痕跡。

本丸からは領地の明智荘を一望できるなかなかの眺望。だが「戦国の城」を体感するなら、それで満足してはもったいない。実は明智城の真骨頂は、大手道ではなく「裏口」の搦手道の方にある。そちらから改めて本丸を目指してみれば、それが実感できる。

本丸からの眺望。左から2番目、中央の山は美濃金山城。

大手道からのゆるやかな道を登った後だと、搦手道の荒々しさには驚く。ところどころ岩盤がせり出した斜面は、大手の比ではなく、登り切ったところには堀切や竪堀が回らされていて敵軍を阻む仕様。明らかにここが、この城の「絶対防衛ライン」のひとつだ。

※堀切/V字に鋭く削られた部分。尾根に多い。通過時は確実に猛攻の餌食に
搦手道の登城路入口付近。頭上から乾曲輪が覆いかぶさる。
乾曲輪の最奥部。堀切状に道幅が狭まっている。
乾曲輪は細尾根状。籠れる兵数はそこまで多くなかっただろう。
乾曲輪に設けられた竪堀(たてぼり)。はっきりとした痕跡が残る。

乾曲輪を突破すると、今でも地面が湿っぽい水ノ手(みずのて)曲輪の窪地を経て、再び登り。幾度も折れながら進む山道は、遊歩道として整備されていてもすぐに息が切れるほど。

※水ノ手(みずのて)/井戸や湧き水など城内の水源。喉が渇いては戦もできない。
水ノ手曲輪から台所曲輪を経て本丸へ。
本丸直下の切岸。角度がえげつない。

大手道からの登城路だけでは、「戦う城」を体感できない。大河ドラマ放映に併せて2019年12月に整備された搦手道へも足を運ぶべし。キツイけどね。

城下の天龍寺にある、明智一族の墓参りも忘れずに。

可児市では「可児市の乱」を旗印に、明智城ほか、市内の10の城跡を目下売り出し中。特に美濃金山城、久々利城、今城の三城は巡りやすく、遺構もしっかりと残っていて必見だ。
http://kani-sengoku.jp/castle/

『明智城(明智長山城)』詳細

住所:岐阜県可児市瀬田1238-3/営業時間:見学自由/アクセス:名鉄広見線明智駅から徒歩23分

~明知城~ 竪堀&横堀で手堅い守りの技巧派

続いて、恵那市のもうひとつの明知城(こちらは「知」の字を当てるほうが一般的)。遠山氏累代の城で、信長と信玄・勝頼の武田家との最前線で、数度の合戦歴あり。麓には今期の大河ドラマ館もある(可児市にもある。念のため)。

比高は80mと可児の明智城と同じだが、実際に訪れてみると、その築城の技巧にはこちらに軍配が上げられる。では、城内へ──。

※横堀/一定幅で、斜面と平行方向に掘られていることが多い
旧明智町市街地の裏山にある山城。

東西南北、どこから攻め入っても、ぐるりと取り囲む横堀と、随所に穿たれた畝状(うねじょう)竪堀がゆく手を阻む。

※畝状竪堀(うねじょうたてぼり)/平行して連続する竪堀のこと。圧巻だが写真には全体像が映りにくい
東側の横堀内から本丸・二ノ丸方面を望む。
東から南へと伸びる堀底道。

この城を攻める者は、必ず横堀の堀底道をゆくことになる。幅狭く湾曲した道はまるで迷路のごとし。右へ? 左へ? どちらがこの城の心臓部へと続くのか手探りで進むしかない。

本丸北側の畝状竪堀の一部。明確なV字が残る。

とりあえず、本丸北側の横堀を進む。頭上左手が二ノ丸、そして本丸。切岸の角度と落差が半端でない。直登はまず無理で、そのまま横堀を進むと落差は徐々に低くなり、やがてヤブを漕げば取り付けそうだが……。

※切岸(きりぎし)/斜面をさらに削り急角度にした構造。下から見るとほぼ壁
本丸直下の横堀から切岸を見上げる。

引き返して南側へと回りこむと、右手に枝分かれした虎口状の通路。折れを突破すると、ポッカリと広々した空間が開けていた。「水ノ口砦」には、巨大な貯水池があったらしく、確かに窪地が広がっている。

水の手を落とせば城は落としたも同然。故にその護りは固い。虎口は案外大したことはなかったのだが、正面を見上げると屏風のように尾根が覆っている。戦時にはズラリ城兵が並んでいたのは間違いない。ほぼ三方からの狙い撃ちとなる構図だ。

※虎口(こぐち)/折れを伴う曲輪の入口。侵入時には確実に勢いを削がれる
水の口砦内部より。尾根との比高差は数mある。

城内最大の難所を突破して尾根上へ。背後の出丸を気にしつつ、右に折れて進めば二ノ丸、本丸。ここまでの防備の厳しさに比べると意外なほど障害なく登り切る。

ただし、両曲輪の広さはかなりのものだ。ここに相当数の兵を籠らせておけば、冒頭の北側空堀や、先ほどの水ノ口砦への攻撃をひっきりなしに行える。実に理にかなった防御思想が込められているとわかる。

二ノ丸から北側の空堀を見下ろす。

本丸の西へも尾根伝いに段曲輪が連なっている。たどってゆくと「三の丸」の看板が見え、その先にスバッと見事に斬られた大堀切が出現。実は最初の「ヤブを漕げば取り付けそうな」場所がこの大堀切なのだった。

※段曲輪/斜面に階段上に並んだ曲輪。横長で幅狭のことが多い
※大堀切/巨大な堀切。ジタバタしていると即死
中央を横切っているのが三の丸先の大堀切。
大堀切を横から見る。草木に埋もれても落差がよくわかる。
三の丸・本丸間の切岸。大堀切を越えてもこの巨壁が待つ。

明知城の横堀と竪堀を駆使した構造は、東美濃では突出して技巧的な存在。同市内には日本三大山城として著名な岩村城もあるが、あちらが「石垣の城」代表なら、こちらは「土の城」代表。並び称されて決して引けをとらない、攻め手をうならせる名城といってよい。

麓の龍護寺境内の光秀公供養塔。光秀に関する石碑は、彼の「悲痛な想い」で割れるという通説があり、ここの碑にもひび割れがあるという。

織田vs武田の最前線だった恵那市一帯には、両軍が築いた陣城(戦場に設けた砦)跡も多数。両家の築城術の違いも見ながら巡れば、戦国をよりリアルに感じられるはずだ。

(次回は「光秀ゆかりの城②」。八上城を攻めます)

『明知城』詳細

住所:岐阜県恵那市明智町城山1318-1/営業時間:見学自由/アクセス:明知鉄道明智駅から徒歩15分

取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)