カフェに救われた経験を持つ店長が札幌から国分寺へ
『喫茶ソラクラゲ』は世界クラゲデーの2023年11月3日にオープンした。店名には、クラゲが空を飛ぶような、あり得ないことにも可能性があると信じて楽しく生きていたいという思いが込められている。
札幌出身の店長、稲垣菫(すみれ)さんは、子どもの頃からクラゲが好きだった。そのクラゲの形をしたクッキー、くらげっきーが誕生したのはおよそ5年前のこと。辛いことが重なっていた学生時代のある時期、通っていたカフェの店長から「クッキーを焼いてみたら?」と提案されたことがきっかけとなった。稲垣さんはその経験や店に集まる個性的な大人たちの様子から、カフェの存在に救われ、勇気づけられた。
大学卒業後、札幌でくらげっきーやコーヒーを販売する「ソラクラゲ」を立ち上げ。ケータリングやイベント出店、間借り営業を経て、小さなカフェを開くに至った。しかし新卒1年目での起業は予想外の出来事が多く、契約の関係もあって店は閉めざるを得ない状況に陥ってしまう。改めてカフェをもっと学びたいと訪れたのが西国分寺の名店『クルミドコーヒー』が開いていた「カフェからまちは創られる」という講座だった。約半年の間、札幌から2週間に1度、飛行機で通ったという。
シェアハウスの食堂で話した夜から始まった3人の『喫茶ソラクラゲ』プロジェクト
『クルミドコーヒー』で講座の担当者だったのが、のちに『喫茶ソラクラゲ』の事業主となる鈴木弘樹(ひろき)さんだ。鈴木さんは小学生のころからコーヒー屋になるのが夢で、大学在学中から5年間もの間、名店『クルミドコーヒー』で働き、コーヒーから貧困や環境問題、地域活動と視野も活動も広げてきた。稲垣さんと鈴木さんは同年代で、カフェへの考え方が一致していると意気投合。
「カフェはただ飲食する場所ではなくて、働く人もお客さんも、一人一人が安心して過ごし、さらにその先に何か表現できる場なのではないか」。講座の後には夜の深い時間までそんな話で盛り上がったのだとか。
その後、稲垣さんは札幌の「ソラクラゲ」を閉め、国分寺に引っ越してきて、丸の内にある企業に勤務。シェアハウスの『ぶんじ寮』にしばらく住むことにした。『ぶんじ寮』は、鈴木さんも一時期住んでいた場所だ。
稲垣さんは丸の内で働きつつ、いつかはもう一度カフェを経営したいと考えていた。そんなとき、『クルミドコーヒー』からIT企業に転職した鈴木さんが、新たにカフェを作りたいと活動を始めたことを知る。そうなると稲垣さんの心もザワザワ。「私も一緒にカフェをやりたい」と鈴木さんと話すことに。
どうやったら2人が実現したいカフェができるのか。『ぶんじ寮』の食堂で話し合ったが、どちらも思いが強いせいでどうにもこうにも方向が定まらない事態に。
2人の熱い話し合いを見て、声をかけたのが今も『ぶんじ寮』に住む田口敏広(としひろ)さんだ。人事コンサルタントの職を持つ田口さんが、見事に論点を整理し、2人の気持ちに沿った落としどころに導く姿は頼もしかった。田口さんがいてくれるとものごとが進むから、一緒にカフェをやらないかと持ちかけて、3人で『喫茶ソラクラゲ』を創業することとなった。
そこから11月の開店まではスピーディーだった。クラウドファンディングで開業資金を集め、物件を契約し、内装はほとんどDIY。中古の家具を買い入れ、一緒に働く仲間の求人も行うなど、3人のカフェへの思いは全て行動に現れた。
オープンして間もなくから近隣住民が繰り返し訪れ、「空海月談話室」と名付けたゲストを読んで話を聞くイベントも開かれるなど、「まちに開いた創造拠点」としての機能を発揮し始めている。
それぞれの特技がキラリ。食べ応えのあるむにむにプリンと自家焙煎コーヒー
スイーツはくらげっきー以外も稲垣さんの手作り。材料は、直接訪ねたこともある北海道の生産者から取り寄せている。
むにむにプリンは、海辺の小さな町で育てられた平飼いの卵と北海道産の甜菜糖(てんさいとう)を使用。その名のとおりムニムニとしていて固めだ。カラメルがしっかり苦く、プリン自体もあまり甘くないのもポイントで、濃厚な卵の味をしっかりと感じられる。クリームとくらげっきーが添えられているため、食べ応えもあり満足。
コーヒーは鈴木さんの担当だ。学生時代に訪れたラオスのコーヒー農園の豆を自家焙煎している。ドリップコーヒーは深煎りと中深煎りがある。深煎り珈琲は一般的な深煎りよりも深めの焙煎でコクもある。少し冷めてしまってもきちんと味わい深い一杯だ。
運ばれてきた深煎り珈琲に「香りがいいですね」と声をかけたとき「味もいいですよ」と間髪入れずに応えたのは田口さんだが、なんと田口さんはコーヒーが飲めない。「適当なこと言うのが僕の役割です」と表情も変えず静かなトーンで話すので、笑ってしまった。本業がある田口さんは週末にお店に立ちながら、お店の経営も支えている。
稲垣さんが焼くくらげっきーがテイクアウトでも好評なのはもちろんのこと、鈴木さんが焙煎したコーヒー豆を仕入れている小さなカフェもある。プレオープンの時期には、レコードプレーヤーを寄贈してくれる人が現れ、ジャズを中心にレコードがどんどん集まっている。できて間もないカフェでありながら、その愛されっぷりにも驚く。
平日は14時から22時まで開いている『喫茶ソラクラゲ』。喫茶を名乗りながら、夜型の営業をしているのは、「創造が生まれる時間帯は、夜が更けて一通り盛り上がった後が多かったから」と鈴木さん。
カフェに救われた店長のいる『喫茶ソラクラゲ』を舞台に、別の誰かが救われたり、新たな出会いや小さな創造が育まれたりしていく。『喫茶ソラクラゲ』でくらげっきーのとぼけた表情に目を細めながら深煎りのコーヒーを飲んでいると、そんな小さな奇跡を目の当たりにすることだろう。
取材・文・撮影=野崎さおり