ベトナム社会主義共和国
インドシナ半島東部の成長著しい共和制国家。日本には約52万人が暮らすが、うち18万人が技能実習生で、北海道から沖縄、離島に至るまで全国各地で製造業、建設業、農業、漁業などに従事。首都圏では留学生が多く、飲食や小売りなどのアルバイトとしても働く。
アジア的カオスに満ちた小岩
さらに市区町村別の人口を見れば、都内で最もベトナム人が多いのは江戸川区の3207人である。2位足立区(2983人)、3位豊島区(2610人)と続く。意外であった。新大久保に見られるように多民族集住が進む新宿区がトップかと思ったが、そうではないのだ。江戸川区といえば、この連載でも2度に渡って紹介したように西葛西や船堀にインド人のコミュニティーがあるが、ベトナム人もこの地に根を下ろしているのはどんな理由があるのだろうか。江戸川区でもとくに多国籍タウンとなりつつある小岩に行ってみることにした。
総武線の駅を降りると、南口には渋い歓楽街が広がっているのであった。居酒屋やキャバクラやガールズバーの合間に、フィリピンパブも点在している。タイマッサージ、中国や韓国の食材店、ネパール料理なんかもちらほらとあって、筆者の住む新大久保にも似たアジア的カオスに満ちている。
ベトナムの食材店もあって、日本語がぜんぜん通じないのだが翻訳アプリを駆使して尋ねてみれば、北口にベトナム人に人気のレストランがあるという。「カラオケもあるよ!」なんて言う(そう表示されたスマホ画面を示す)ではないか。
さっそく行ってみると、料理の写真がペタペタ貼られている怪しげな外観でやや入りづらくはあるが、ドアを開けると愛想のいいアニキが出迎えてくれた。
日本語学校に通う留学生たちの拠点に
とりあえずは飯だろう。料理人にして店番の彼、グエン・ヴァン・トゥさんによれば、おすすめはフォーだという。ベトナムを代表する米麺料理だが、こちらは「フォー発祥の地」ともいわれる北部ナムディン風で、牛骨スープとたっぷりの牛肉が特徴だとか。
「これもおいしい」
そう勧められたのは有名な生春巻きかと思ったが、微妙に違う。ライスペーパーではなく、フォーのもとになる米を皮状にしたもので、具材を巻いてあるのだ。生春巻きよりだいぶモチモチした食感だ。フォークオンといってこれも北部で人気だそうだが、問題は江戸川区なのである。どうしてこのあたりにベトナム人が多いのか。グエンさんはカタコトの日本語と翻訳アプリを組み合わせて説明してくれた。
「小岩、東京の中心から離れてる。家賃、安い。でも、便利。なんでもある。だから留学生が多い。みんな小岩に住んで、新大久保、渋谷、浅草、いろんな日本語学校に行く」
江戸川区の中でも、にぎやかな商店街がありつつ家賃が手ごろで、かつ総武線一本で都心にアクセスできる小岩に、ベトナム人が集住しているという。
「総武線の、両国から船橋の間。どの駅もベトナム人いっぱい。でもいちばん多いの小岩。次が隣の新小岩(こちらは葛飾区だ)」
古くから江戸川区には外国人が働く工場群があり、中でも小岩は歓楽街の中にアジア系の店も多く、外国人を受け入れる下地があった。そこにベトナム人が流入してきたようだ。その大半は留学生で、昨今さまざまな問題が報じられている技能実習生は「いるけど、少ない」という。実習生はおもに千葉方面の工場や建設現場などで働いているそうだが、そちらに通うにも小岩は便利な場所なのだ。
「あと、小岩はアルバイトするとこもいっぱい」
留学生といってもアルバイトをして稼ぎ、故郷に送金することが来日の目的のひとつという人もかなりいる。繁華街であり歓楽街も擁する小岩なら、アルバイト先も事欠かない。居酒屋、コンビニ、深夜の清掃、ホテルのベッドメイク……若いベトナム人留学生が地域を下支えしているといえるが、そんな彼らが集まってくるのがこの店なのだ。
カラオケ、美容院もあるベトナム総合ビル
グエンさんと話している間にも次々とお客が来ては2階に上がっていく。
「上、ヘアカット」
のぞいてみれば美容室なのであった。ベトナム人の美容師が留学生の客と世間話をしながら髪を切っている。
さらに3階はギンギラな内装がまばゆいカラオケルーム。「日本の歌もあるよ」とグエンさん。
ベトナム人の若者の需要を一軒で満たすビルといえるが、1階は飲み屋のような存在で、週末の夜は大騒ぎになるという。だから酒のつまみ的なメニューが中心になっている。小松菜と牛肉の炒め物がよく出るそうだが、ヤギ肉も人気だから食ってみろという。
運ばれてきたのはアツアツに熱した石鍋。底にレモングラスや生姜が入れられ、上にヤギ肉が敷かれている。
「ちょっと待って」
グエンさんが持ってきたのは生ビールであった。石鍋にどばどば注ぐと、猛烈な湯気が立ち上る。すかさず蓋をする。蒸し焼きにするのだ。
ビールの効果か、柔らかく風味豊かなヤギ肉を、大葉やパイナップルなどと一緒にライスペーパーで巻き、豆醤ベースのタレにつけて食べる。若者のグループがよく頼むそうだ。
こうしてひととき騒いだベトナム人たちは、また学校や職場に戻っていく。いまや在日ベトナム人は52万人にまで膨れ上がったが、それは彼らの労働力を日本社会がアテにしているからだ。ベトナム側も国策として海外出稼ぎを後押しし、若者たちがどんどん日本にやってくる。そんな社会の一端が、小岩のベトナム飲み屋にはある。
『デェ・ニァット・クアン』店舗詳細
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2023年12月号より