BGMはもちろん、あいみょん『愛の花』。2023年、もっとも口笛を吹いた曲かもしれない。あいみょんらしい軽やかなメロディが、『らんまん』という愛情溢れる話を彩ったことはなんと幸せだったろうか。
咲き誇る花々に負けず劣らず、カラフルで豪華絢爛だった『らんまん』の登場人物
妄想散歩に出る前に、まずは『らんまん』のストーリーを振り返ろう。
幕末の土佐、佐川村に生まれた槙野万太郎(神木隆之介)。峰屋という酒蔵の長男として祖母タキ(松坂慶子)たちに大切に育てられる。姉の絢(佐久間由依)や番頭の息子、竹雄(志尊淳)とともに成長しながら万太郎は幼少期から植物に惹かれる。上京すると東京大学の門を叩き、小学校中退という学歴ながらも研究室への出入りを許される。万太郎は運命の人、寿恵子と出会い、ふたりは互いに寄り添い合いながら、植物の研究を究めてゆく。
このドラマ、一言でいうと実にチャーミングだった。万太郎、寿恵子はもちろん、絢も竹雄も、登場人物たちがとにかく愛おしかった。演じていた役者がすばらしかったというのは言うまでもないが、視聴者の心を掴むセリフの数々に涙する回も多く、キャラ造形もすばらしい作品だった。さらに、愛すべき脇役たちも多かった。波多野(前原滉)や藤丸(前原瑞樹)ら大学で出会う人々も十徳長屋の住人たちも、皆が皆、生き生きとしていた。
だが、一番チャーミングだったのは誰か?と問われるとやはり、主人公万太郎ということになるだろう。
万太郎のモデルとなった牧野富太郎は天才肌で、常に想像の斜め上を行く奇抜さも魅力だった人物。そんなトリッキーな役を自然に演じきった神木隆之介は、やはりスゴい。『らんまん』は彼の新たな代表作の一つとなるだろう。
万太郎が植物学研究に勤しんだ舞台。多くの植物学者たちを育んだ「小石川植物園」
それでは、そろそろ万太郎と散歩を始めよう。まず、行きたいのはやはりココだ。若き日の万太郎が通った東京大学。東京大学院理学科の施設である「小石川植物園」に行ってみよう。
「小石川」という地名は『らんまん』で印象に残っていないが、実はこの地こそ植物学の研究の舞台だった。
まず、東京大学のHPの記述を参照したい。牧野富太郎について詳しく書かれている。
東京大学大学院理学系研究科附属植物園小石川本園(通称:小石川植物園)は、1877年の東京大学設立当時から植物学科の研究の場として利用されてきました。1886年に帝国大学理科大学の管理下となり、1897年に植物学教室が本郷より移転されてからは、園での研究はますます活発になりました。
土佐出身の牧野富太郎(1862–1957)も小石川植物園で研究を行った一人です。彼は1884年に東京大学理学部教授だった矢田部良吉と面会し、その植物知識の深さから植物学教室への出入りを許され、1893年から1939年まで同教室に在籍しました。
牧野は1500種以上の植物の記載に関わり、日本の植物分類学の礎を築いた一人です。『植物学雑誌』や『植物研究雑誌』などの学術雑誌を刊行したほか、植物図鑑の基となる『日本植物志図篇』など多数の著作を残し、植物学の普及にも大きく貢献しました。
植物を描く名手でもあった牧野は、植物の特徴を精密な植物図と共に記しました。ここに展示されている『牧野日本植物図鑑』(1940年刊行)は、牧野が78歳の頃の著作で、日本の野生植物3206種を図解した牧野の研究の集大成です。
※東京大学大学院理学系研究科・理学部HP「小石川植物園で活躍した研究者:牧野富太郎」より
この文章を眺めていると研究室のあらゆる場面が思いだされる。若き日の万太郎が勢いにまかせ研究に打ち込む姿、仲間たちと語り合ったやさしい時間。藤丸が仲良くしていたあのウサギもまた、懐かしい。そんなことを思いながら、小石川植物園を歩き始めたが、その広さにまず驚く。調べたところ敷地面積は16万㎡もあるのだそう。
都会のど真ん中にこんな空間があったとは。「さすが東大」という気持ちも生まれるが現在の植物園の礎を気づいたのは、紛れもなく万太郎のような明治、大正の若き植物学者たちだった。
「東京大学」と聞いて多くの人が思い起すのは、田邊教授(要 潤)だろう。前述のHPの文章にも田邊教授のモデルとされる「矢田部良吉」の名があった。田邊教授VS万太郎という構図は物語中盤を支えたドラマの大事な背骨だった。
先ほど、万太郎を褒めちぎってしまったが、アカデミックな視点や常識から考えると、彼は異端児でしかない。敵役になってしまった田邊教授に同情したくなるような場面も多々あり、そのもどかしさや切なさもまた、ドラマの魅力だった。どこか神秘的な研究者の世界がドラマチックに描かれ、かつ視聴者に感情の持ちようを委ねる場面も多かった。
緑あふれる小石川植物園にも確実に秋がやって来ていた。足を運んだのは日曜の午後だったからか、ゆったりとくつろぐ家族や、慣れた風に園内を歩き回る散歩客も多かった。万太郎や田邊教授たちが次の世代に引き継ごうとした植物への想いが、こうして今でも多くの人を癒やしているのだ。
そう考えると、日本植物学草創期に活躍した、彼らの功績はなんと大きいことだろう。けれど、『らんまん』は万太郎の学者としての成功という「結果」を描くだけのドラマでは決してなかった。万太郎の人生、彼を取り巻く人々の人生、つまり「経過」を丹念に描いた作品だったからこそ、私たちは半年間も夢中になれたのだ。
最終週に神展開の舞台となった練馬の家。晩年の万太郎を想う
次に万太郎と散歩をするのは、終の住処となった東京都練馬区大泉。寿恵子が渋谷の店を売り手に入れた、あの場所は今も現存する。「練馬区立牧野記念庭園」として開放されているのだ。
万太郎のモデル、牧野富太郎はここで晩年を過ごした。『らんまん』でも寿恵子のおかげで引っ越す様子が描かれていたが、あれは史実に近いエピソードのようだ。寿恵子のモデル、牧野富太郎の妻、壽衛が尽力し、この練馬に引っ越したという話が残っている。壽衛がいかに牧野富太郎にとって大きな存在だったかが思いはかれる。
「牧野記念庭園」の入り口では、富太郎が壽衛の名を取ったスエコザサが、来るものを迎えてくれる。ご存知の通り、この植物の名前はドラマ最終週の、週タイトルともなった。庭園は『らんまん』人気も手伝って、大にぎわいだった。
スエコザサは富太郎の胸像を取り囲むように植えられている。ふたりは今なお、寄り添っているのだ。実際に練馬、大泉まで来てみると、万太郎、寿恵子が、多くの人に愛されていたということを実感する。
というのも、大泉村が東京市に編入されるのは昭和7年(1932)頃。万太郎が練馬に来たのは大正15年(1926)頃なので、大泉は東京の片隅の田舎でしかなかった。最寄り駅、大泉学園駅(名称は東大泉駅)は大正13年(1924)開駅だから、街ができあがっていく最中、万太郎たちは練馬に越してきたこととなる。『らんまん』のなかでは、波多野や藤丸たちが車に揺られ万太郎の家を訪れるシーンも描かれていたが、都心から遠い場所にわざわざ赴くという雰囲気を強調していた。
最終回の1話前、第129回では余命わずかとなった寿恵子のために、図鑑づくりを進める万太郎を、多くの人々が応援に来る姿が描かれた。まさにオールスター再集合という、練馬のシーンにグッとさせられた。そう、万太郎も寿恵子も誰からも好かれる、超絶愛されキャラだったのだ。
万太郎が残した『牧野日本植物圖鑑』は人に愛され、人を愛した人生の証明
最終週は、ナレーションを担当していた宮崎あおいが、万太郎の遺品整理をする女性、藤平紀子として登場。さらにタキ役で物語序盤を支えた松坂慶子が万太郎の娘千鶴として再登板を果たした。万太郎が亡くなった後の様子が描かれるという神展開が話題を呼んだが、千鶴の言葉がまさに『らんまん』を象徴する名ゼリフだったのでここに書き残しておきたい。
紀子が、万太郎の研究の集大成『牧野日本植物圖(ず)鑑』を改めて称え、「さぞ、偉大なお方だったんですね」と万太郎を褒める。すると千鶴はこう返すのだ。
「偉大ねえ……あのね、ちっとも。そりゃあダメなお父ちゃん、周りの人たちを振り回して。今だってこんなに振り回されているでしょ。でもみんな、お父ちゃんが大好きだった。この一冊ができたのも、全部、お母ちゃんと皆さんのおかげなの」
周りの人に助けられ、誰よりも妻、寿恵子に支えられ、万太郎はこの図鑑を完成させたのだ。人に愛され、人を愛した槙野万太郎だからこそできた大仕事だったと言えよう。
ここに一冊の本がある。初版本など貴重な本ではまさかないが、正真正銘の『牧野日本植物圖鑑』だ。ドラマで千鶴が手にしていたまさにあの本。さすが万太郎という美しく精緻な植物画に魅了される。事細かな解説文に、その真面目さと情熱がみなぎっている。
ドラマに登場した花の名前に目を奪われる。万太郎……いや、牧野富太郎博士の生きた証を眺め、しばし固まってしまう。
『らんまん』は植物を真ん中に置きながらも、人と人とのつながりの大切さを描いた良作だった。何かを愛すること、誰かを慈しむとはどういうことか、それこそが主題だったのではないだろうか。図鑑を眺めながら改めてそんなことを考える。万ちゃん、寿恵ちゃんはじめみんなの笑顔は、これからも私たちの心のなかで咲き誇り続ける。
文・写真=半澤則吉
参考文献=東京大学大学院理学系研究科・理学部HP、練馬わがまち資料館HP/『連続テレビ小説らんまんPart1.2』(NHK出版)