「大丈夫、俺だって入学したときまさか自分がドラム叩くなんて思ってなかったし」
林さんはもともとボーカル志望だったのが、足りなくなりがちなベースやドラムにサポートで入っているうちにいつしかそちらばかりになってしまったという。お人好しだという私の第一印象は間違っていなかったようだ。
決起会という名の部室練習でとりあえずそれぞれ楽器を鳴らしてみたが、大和田くんのベースはかなり心許なく、私のキーボードもどっこいだった。藤崎さんはもともと志望していただけあってギターもボーカルも安定していた。歌はすごくうまいわけではないけれど、低めの澄んだ声が印象的だった。ひとつのバンドの持ち時間は十五分とのことで、林さんが初心者に向いた曲の候補をいくつか出し、藤崎さんと大和田くんが選んで、演奏する三曲が決まった。どれも有名な邦楽だが、私はどれもなんとなくしか聴いたことがなかったので、覚えるところからやらなければならない。
決起会のあと、林さんはどこかでご飯でもと呼びかけたけれど、まず藤崎さんが、続いて大和田君がすげなく帰ってしまった。
「米沢さんも帰る……?」
ごく遠慮がちな聞き方がなんだか気の毒になって、私は林さんとふたりで戸山キャンパス近くの喫茶店に入ったのだった。錆びついた外階段を上って扉を開けるとショーケースにケーキが並んでいる。おごってくれるというのでガトーショコラを頼んだ。林さんはコーヒーだけだ。
「ここ、俺が入学したころは煙草吸えたんだけどなあ」
「林さん、吸うんですね」
「うん。吸うつもりなかったんだけど、先輩たちにひっついてたらいつの間にか」
横のテーブルにはカップルが座っていた。つきあいたてなのか、はにかんでばかりであまり会話は進んでいない。店内はレトロな雰囲気で、たしかにデートに向いていそうだ。立地、煙草、ショーケースのケーキ、カップル。私の頭でふいに符号がつながった。
「ここ、結構昔からあるんですか?」
「たぶん、老舗だとは思うけど……」
林先輩はすぐに検索をかけ、今年で二十七年目らしい、と私に教えた。では可能性はあることになる。母が気になる男の子に連れてきてもらったという喫茶店だ。母はアップルパイ、男の子はチーズケーキを食べ、二人して煙草を何本も吸いながらフランス映画について語り合った。帰りの道でふいにされたキスはほろ苦く、煙草はケーキの甘ささえ打ち消してしまうのだと知ったという。彼の名前はそれ以降出てこないので、関係はそれきりだったのだろう。
母の日記は中学生のとき、父の書斎で見つけた。いまにして思えば日記の内容は子供が読むには赤裸々すぎるような記述もいろいろあるけれど、父は私が日記を自分の部屋に持ちこんだのに気づいてもなにも言わなかった。言えなかったのだろうと思っている。
「米沢さん?」
「ああ、えっと……」
思わず黙り込んでしまっていた。うまいごまかしが思い浮かばず、私は素直に喋ることにした。こういう不器用さは父親譲りだな、ともどかしくなる。
「母の日記に書いてあった場所かもしれなくて。店名はなかったんですけど、雰囲気が……」
「お母さんの日記?」
「私が子供のころに死んじゃったんです。せっかく同じ大学に入れたので、日記に書いてあるところを探してて……」
「ああ、それでか」
「それでか?」
「米沢さん、火曜にメルシーでラーメン食べてたでしょ。一人だったし、米沢さんってどっちかっていうとスタバで女子会って感じなのに、意外だなって思ってたんだ」
「えっ声かけてくださいよ」
林さんはへらへらと笑うばかりだった。
「でも、探しても潰れちゃってるところが多いんです」
「あー、俺が入学したときよく行ってた店でも、もうないところも結構あるよ。このへんやっぱ都心だし、賃料高いのか店の入れ替わり激しいからね」
「そうなんですね……」
肩をおとすと、先輩は笑った。
「まあ、しょうがないよ。お母さんのころとは変わってるんだから、米沢さんは米沢さんのキャンパスライフを楽しめばいいんじゃないかな」
林さんの言葉は正しかった。そうですね、と返事ができずにケーキをほおばる。
「ところで、米沢さんってあんまりバンド興味なく入っちゃったんだって? もしイメージわかないなら、来週、定例のライブあるから見に来る? 俺も出るし」
「あ、はい」
「あいつらも来るかな」
「いやー、どうでしょう……」
私が首をかしげるのに苦笑しつつ、林さんはさっそくグループにライブの案内を流して、お、既読ついた、と楽しそうに笑っていた。
予想に反して、定例ライブには大和田くんも藤崎さんも来ていた。ふたりともやる気がないように見えて、やっぱり音楽が好きなのだろう。会場につくと藤崎さんがいるのが見えたので、嫌がるかな、と思いつつ手を振ると隣に来てくれた。藤崎さんはさばさばしているところはいつも通りだったけれど、二人で話すと意外に気さくだった。気づけば仁美、紗凪、と呼び合うようになっていて、思い切ってなぜいつも不機嫌な調子なのか訊いてみると、林さんってテキトーすぎてなんか苦手、とちょっと眉根を寄せた。
サークルのメンバーかその知り合いしかいない会場はざわざわと話し声がうるさかった。仁美はライブハウスには慣れているようで、観覧するのによい位置取りやドリンクの注文の仕方など、あれこれ教えてくれる。話していると大和田くんが入り口近くで腕組みしているのが見えたので、ふたりで声をかけに行った。彼も口下手ながらにステージ上で準備されている機材についてぽつぽつと教えてくれた。
不意に照明が落ちる。みんながわっと歓声をあげた。まばゆいステージライト。演奏が始まる。
一〇組のパフォーマンスが披露されたその日のライブで、林さんは二組でドラムを叩き、一組でベース、そして大トリのバンドではギターとコーラスまでやっていた。数をこなしているだけあって演奏技術はたしからしく、入れ替えのたび仁美に肩を叩かれ、え、林さん結構やばくない? と同意を求められた。私には細かいところはわからなかったが、大和田くんが音楽用語をまじえつつ解説してくれたのでともかく技術があるというのは理解できた。
打ち上げにもみんなで参加したかったが、大和田くんはバイト、仁美も家が遠いと帰ってしまった。
「そっかあピアノ経験者かあ、いいねえキーボードがあるとさやっぱ音が締まるよねえ」
「バイト塾講にしちゃったの? 絶対やめた方がいいよ!」
「実家、千葉? 何線使ってた?」
「二外フラ語だって? フラ語のやつあっちにいるから連れてこようか?」
一次会で同期に何人も友達ができた私は、新歓のときの教訓をすっかり忘れて二次会に参加してしまった。けれど真っ赤な顔をした先輩たちの名前や性格がわかるようになったせいか、みんなで楽しそうに騒いでいるあの輪の中に早く加わりたいと思っていた。二十歳まではまだ少し遠い。
会も終盤になり、みなあちこち席を移動し始めたころ、トイレから戻ってきたところらしい林さんと目が合った。こちらのテーブルがひと席空いているのを見て移動してくる。林さんもすでにかなり酔っていた。
串焼きの店らしいが、最初に盛り合わせを頼んで以降はみんな酒しか注文していない。林さんは卓上調味料の壺から辛味噌を大量に皿に出して箸でなめ、ひたすらハイボールをあおりはじめた。
「それ、お酒に合うんですか?」
「うまいよ」
「串よりですか?」
「いやー金ないからさ。串高いじゃん」
「この時期俺ら金欠なのよね。新歓で新入生のぶん払ったりしてたからさ」
なるほど、と納得したものの、ちょっと常識がないような気もする。眉根を寄せた仁美の顔が浮かんだ。
「先輩、なんでこのサークルに入ったんですか?」
「そりゃもうロックスターになれなかったから」
酔っ払いの冗談だと思って笑ったが、林さんの目は真剣だった。また壺から無料のつまみを作り出そうとするので、ほどほどにしてくださいと止める。
「俺、めっちゃ好きなバンドがあって、もう解散しちゃったんだけど、その人たちがこの大学出身でさ、中学のときに絶対あの人らみたくなってやるって上京を決めたわけ。で、最初はもう一個の方に入ったんだよ」
林さんがあげたサークルの名前は、「ガチな方」としてよく名前があがるバンドサークルだった。対して我々の方は「半分飲みサー」で初心者歓迎、という棲み分けがある。
「俺、歌はあんまうまくねぇけど作曲は自信があって。でも最初のライブで俺より才能あるやつがごろごろいるの見て、一瞬で心が折れてこっちに移ったんだ」
ひっひっひ、としゃっくりのような笑い方をする。私は店員を呼びとめ、自分のウーロン茶と林さんのハイボールを注文した。
「でも、今日の林さん、すごかったですよ。仁美が感動してた」
林さんは芝居がかった声でやったーと両手を挙げた。
「でもまあこれはこれで楽しいよ。今日も俺、ひっぱりだこだったでしょ? 人気者にはなれたってわけ」
その口元にはまだ自嘲的なものが残っていたけれど、飲み会の様子を見ていれば林さんが誰からも慕われているのは明らかだった。今日になって知ったことだが、サークルの幹事というのは幹事長、副幹事長、会計担当の三人で構成されていて、会計が林さんなのだった。呼び出された日、教授に嘆願書を書いていたというのは冗談で、はじめから幹部として私たちのフォローをするためにその場にいたのだろう。
ラストオーダーの時間になる。みんなベロベロだ。週末だから同じように飲み過ぎた学生がたくさんいたのだろう。さかえ通り商店街から高田馬場駅前のロータリーに移動すると救急車が来ているのが見えた。急に頭が冷える。こんな風に浮かれた私を見たら、母はなにを思うのだろう。ちゃんと勉強しなさい、と怒るのだろうか、それとも、私の子だからしかたない、と呆れるだろうか。異常な喧噪から逃れるように改札へ駆け込んだ。
そういえば母もよく酔っ払っていた。子供だったからあまりわかっていなかったけれど、安アパートで歌いまくる母の記憶が断片的にある。酔っ払いばかりの飲み会に心を引かれたのも、もしかすると母のことを無意識に覚えていたからかもしれない。
母との小さな暮らしは楽しかった。私はちゃんと楽しかったのに、母はどうして私を置いていってしまったんだろう。ひとりきりで夜を明かした幼い私が、いつも心のどこかでそう問いかけていた。母が苦しんでいたことも、幼いながらに察していたけれど、私がいればきっと母も楽しいはずだと、子供らしい全能感も同時にあった。それなのになぜ。少し大きくなってからは、父への疑問もわいた。なぜ母がいなくなってしまうまで、父はきてくれなかったのか。どうしてもっと早く、私たちを助けてくれなかったのだろう。
いや、わかっている。仕方なかったのだ。ふたりとも、そうしたくて私をひとりにしたのではない。もう子供ではないのだから、十八歳の私はもちろんそれくらいわかっている。でも、泣いて過ごしたあの夜がずっと胸のうちでくすぶっていて、答えのない問いを何度も心の中で繰り返してしまう。
林さんがパフォーマンスで仁美と大和田くんの心をつかんだことで、以降の練習はだいぶスムーズに進んだ。課題曲を家で練習し、週に一度はスタジオで音合わせをする。気になるところは授業の合間に部室で集まって合わせてみることもあった。まだまだ授業にも慣れていないし、バイトも本格的に始まって忙しくなっていたので、時間が過ぎるのはあっという間だった。ひとりでヘッドホンをしながら弾いているとあまり上達していないような気がして焦ったが、スタジオで演奏してみるとちゃんとみんなの音が調和してきている。ほとんどの楽器が弾ける林さんがアドバイスしてくれるのも心強かった。
練習のあとに四人で反省会をするのも恒例になった。林さんは音楽オタク気質のある大和田くんと話すのが楽しいらしく、たいてい話がコアすぎるところに向いてきたところで、紗凪わかる? と仁美が中断するように促してくれる。寄せ集めで始まったバンドだけれど、いつの間にか、全員が本番を成功させたいと思っているのがわかった。
反省会で話が盛り上がって林さんが飲みに行きたがることも多かったけれど、仁美は小田原の方に住んでいて終電が早いので、飲み会を中座するのが嫌だという。じゃあうちに泊まればいいじゃん、と試しに言ってみるとぱっと顔を輝かせた。
練習や飲み会で一日中活動していたのに、ふたりとも寝るのが惜しくて、ずっとYouTubeをみて過ごした。仁美おすすめの邦ロックを一通り聴いた後、私が好きな韓国アイドルの映像を見せる。スタイルすご、曲も意外といいね、といちいち感心してくれるので、ついあれこれ見せているうちに朝になっていた。
最後のスタジオ練習の前日、仁美にさそってもらってオープンしたばかりの噂のスタバに行き、季節限定のフラペチーノを頼んだ。カフェモカを啜る仁美は戸山キャンパスに通っているのでもう授業の帰りに何度も寄ったことがあるという。店内は混んでいたので、外の芝生に座って飲んだ。
「私、林さんにスタバで女子会っぽいって言われたことある」
「わ、モテなさそうな偏見。でもちょっとわかるかも」
「でも、自分がここのスタバに来るなんて思ってなかった」
「なんで? ぽいのに」
母の日記の件をかいつまんで話すと、仁美は神妙な顔になった。
「つまり、ママのことを気にしてスタバにも入れなかったってこと?」
「いや、そりゃ別のところのスタバはしょっちゅう行ってるけど」
「でも大学の中はなんか微妙だったんだ?」
「うーんまあ、そういうことかな」
「でも、当時のゴトーでデートして、テニサーで、フラ語選んでるわけでしょ。しかも紗凪のママじゃん? ってことは、たぶん、結構なミーハーだったと思うけどな」
「ねえもしかして悪口言われてない?」
「まあ新しいもの好きというかなんというか。たぶんママがいま大学生だったら、オープンした当日にスタバ並んで、それとおんなじの頼んでると思うよ。あと韓国語選択だったと思う」
「テキトーだなあ」
ふざけているようで、仁美なりのはげましなのはわかった。それにあながち的外れでもないかもしれない。母は母らしく青春を謳歌して、だからこそ楽しい大学生活だったのだろう。日記の母と同じ目線で学生生活を送ってみたいと思っていたけれど、移り変わっていく街の中からかすれかけた母の痕跡を探すより、自分らしく楽しむ方がかえって母の過ごしていた日々に近いのかもしれなかった。
本番の会場は定例ライブのときよりずいぶん大きかった。幹事長が言っていた新入生と先輩の顔合わせ、という名目の通り、初めて見る先輩の顔も多くある。私たちの出順は二番目だから、会場に入ってすぐ袖で準備を始めた。ちらりと客席の方を見ると、声をかけた演習の友達が笑い合っているのが見えた。視線をさらに後方に移して、仁美の肩を叩く。
「ね、後ろの方におじさんいるでしょ」
「ほんとだ。教授?」
「うちのお父さん」
「マジ?」
「やばいでしょ」
「でもさ、ライブに来てくれるなんていいパパだね」
「過保護じゃない?」
「ちょっとね」
照明が落ち、歓声があがる。指笛を鳴らす音。拍手。激しいライティングとともに、最初のバンドの演奏が始まった。
林さんは肩を揺らしてリズムに乗っている。大和田くんも同じようにしているけれど、ちょっとだけ下手くそだ。仁美も楽しそうに私に笑いかけた。一曲、二曲、と聴いているうちに私の気分もどんどん高まって、気づけばみんなと体を揺らしていた。緊張で手は汗ばんでいるけれど、きっと大丈夫だ。
前のバンドの演奏が終わり、私たちはついにステージへ踏み出した。また大きく歓声が巻き起こり、白いライトがわっと私たちを照らす。このごろ母の日記は開かなくなっていた。最期の瞬間、母は苦しみの中にいたのかもしれないけれど、人生のなかでこういう光のような瞬間が、母にもちゃんとあったのだと遺してくれたことが、私にとっては救いだった。
文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。