宗祖・法然上人と同時代を生きた阿弥陀仏

──蟠龍寺さんは「龍」という字を冠するお寺だけあって、天井に龍の絵が描かれているのですね。
吉田さん

こちらは令和2年に入ったものです。このお寺は、浄土宗の中でもお坊さんの集団内のルールを重視する「律院(りついん)」だったこともあって、真摯に阿弥陀如来に向き合って生活をしていく、修行道場に近いつくりになっています。そのためあまり本堂に飾りがないお寺だったのですが、友人が気に入ってくれてその伝手で奉納していただきました。

──もっと昔からあるかのような迫力の天井絵ですね! 御本尊についてもお聞かせいただけますか。
吉田さん

本来だと脇侍(わきじ)の観音菩薩と勢至(せいし)菩薩が一緒にお祀りされることが多いのですが、阿弥陀如来一仏だけを祀っています。それも律院の特徴のようです。立ち姿で脇侍がいらっしゃるのは救いに出るときのお姿なのですが、こちらは修行する人と阿弥陀様が一対一で向き合うようになっている座り姿の像です。お寺よりもだいぶ古い像で、浄土宗の宗祖の法然上人(ほうねんしょうにん)がまだご在世だった平安末期から鎌倉初期くらいにできたものが、当院に遷(うつ)されたと考えられています。法然上人と同時代を生きていた仏様だと思うと、すごく不思議なロマンがありますね。

東京都の重要文化財となっている、御本尊の阿弥陀如来像。立ち上がれば人間と同じくらいの背丈になるような大きさと、今にも口を開きそうな表情が、一対一で仏とリアルに向き合う感覚を生む。
東京都の重要文化財となっている、御本尊の阿弥陀如来像。立ち上がれば人間と同じくらいの背丈になるような大きさと、今にも口を開きそうな表情が、一対一で仏とリアルに向き合う感覚を生む。
律院としての歴史を今に伝える石碑。増上寺のNo.2的存在であった霊雲上人(れいうんしょうにん)が、現在の目黒雅叙園付近に置かれていた称明院(しょうみょういん)を、宝永6(1709)年に現在の位置に移転し、霊雲山蟠龍寺と改名。蟠龍とはとぐろを巻いて力を蓄える龍の意。
律院としての歴史を今に伝える石碑。増上寺のNo.2的存在であった霊雲上人(れいうんしょうにん)が、現在の目黒雅叙園付近に置かれていた称明院(しょうみょういん)を、宝永6(1709)年に現在の位置に移転し、霊雲山蟠龍寺と改名。蟠龍とはとぐろを巻いて力を蓄える龍の意。

江戸の泰平を護る「山手七福神」

大黒天を祀る大円寺など、目黒駅から白金高輪駅付近に建つ6つのお寺で七福神を祀(まつ)っている。お正月に七福神巡りをすることで家内安全や商売繁盛などのご利益があるといわれる。
大黒天を祀る大円寺など、目黒駅から白金高輪駅付近に建つ6つのお寺で七福神を祀(まつ)っている。お正月に七福神巡りをすることで家内安全や商売繁盛などのご利益があるといわれる。
本堂に向かって右手の岩窟内に鎮座する辯才天(べんざいてん)像。洞内にはしっとりとしたミステリアスな空気が流れる。
本堂に向かって右手の岩窟内に鎮座する辯才天(べんざいてん)像。洞内にはしっとりとしたミステリアスな空気が流れる。
──蟠龍寺さんでは、「山手七福神」の一つである辯才天を祀っていると伺っています。他にもたくさんのお寺がある中、誰がどうやって七福神のお寺を定めたのでしょうか。
吉田さん

実は、それが明らかになっていないんです。江戸時代の半ば、吉宗公の頃、地震や飢饉、疫病などで多くの人が亡くなった時代があるんですね。その頃、誰の手によってか江戸の七福神信仰が盛り上がり、谷中と山手に七福神が設けられたと言われています。この二つの土地は、江戸の鬼門と裏鬼門にあたります。江戸の街を新たに興すとき、家康公のブレーンで風水にも長けた天台宗の天海僧正(てんかいそうじょう)という方が、江戸が長く都として栄えるよう、風水的によい京都にならって寺社などを配置しました。鬼門側に上野の寛永寺さん、裏鬼門側には浄土宗の増上寺を移転させて配置したのですが、先ほどお話したような大きな禍いが起こったので、改めて江戸の町を守護するために七福神が置かれたのではないかと推測されているんですね。

──単にめでたいから置いたわけではなくて、そんなダイナミックな歴史が秘められているんですね!

境内に残る「岩屋辯財天」の石碑には、「江戸裏鬼門鎮守」「安永四年」の文字が。これが江戸最初の山手七福神と呼ばれる所以。
境内に残る「岩屋辯財天」の石碑には、「江戸裏鬼門鎮守」「安永四年」の文字が。これが江戸最初の山手七福神と呼ばれる所以。
もともとは土の素掘りの洞窟で、光が届かないくらい奥深くに水が湧き出し、そのほとりに辯才天が祀られていたそう。「伎藝(ぎげい)の神様ということで、暗くなってからそっとお参りされるミュージシャンの方もいらっしゃいますよ」と吉田さん。
もともとは土の素掘りの洞窟で、光が届かないくらい奥深くに水が湧き出し、そのほとりに辯才天が祀られていたそう。「伎藝(ぎげい)の神様ということで、暗くなってからそっとお参りされるミュージシャンの方もいらっしゃいますよ」と吉田さん。
こちらの辯天堂に収められている木製の辯才天像は、岩屋辯才天の御本体に代わる「御前立(おまえだち)」として礼拝されていたもの。現在は辯才天像の他にもさまざまな奉納物を納めている。中には使い終えた三味線のバチも。折れたドラムスティックのお焚き上げ供養などの依頼もあるという。
こちらの辯天堂に収められている木製の辯才天像は、岩屋辯才天の御本体に代わる「御前立(おまえだち)」として礼拝されていたもの。現在は辯才天像の他にもさまざまな奉納物を納めている。中には使い終えた三味線のバチも。折れたドラムスティックのお焚き上げ供養などの依頼もあるという。
寺務所では御本尊や七福神の御朱印授与のほか、七福神ダルマのおみくじ購入も。
寺務所では御本尊や七福神の御朱印授与のほか、七福神ダルマのおみくじ購入も。
関東大震災での被災後、浅草にあった欣浄寺(ごんじょうじ)から移転された像。顔のあばたに悩む女性が願掛けをしたところ治ったという故事から、おしろいの鉛害に悩む歌舞伎役者が江戸時代に訪れたという話も。今でも美しい肌を願う人々が願掛けに訪れている。
関東大震災での被災後、浅草にあった欣浄寺(ごんじょうじ)から移転された像。顔のあばたに悩む女性が願掛けをしたところ治ったという故事から、おしろいの鉛害に悩む歌舞伎役者が江戸時代に訪れたという話も。今でも美しい肌を願う人々が願掛けに訪れている。

時代や国を越えて妙なる音が流れる

──見どころがいっぱいの蟠龍寺さんですが、「目黒大仏」という仏像が明治時代にフランスに渡ったという話も耳にして、興味を持ちました!
吉田さん

明治時代の廃仏毀釈の頃、お坊さんがいない空き寺のようになっていて、その時代にチェルニスキーさんというフランスの東洋美術コレクターが購入して、パリに運んだのだそうです。大きくて運べないので3つに切って大八車に乗せて横浜港へ。フランスではパリで「考える人」のロダンの工房に持ち込んでついでもらって、ご自宅に飾ってらっしゃったんですね。その方が亡くなった後、屋敷ごとパリ市に寄贈されて、今も展示されています。かつてはヨーロッパ最大の東洋美術と言われて教科書にも載るほどのものだったそうです。そのまま蟠龍寺に残っていたら戦争で供出されてしまっていたかもしれませんけれど、様々な方が尽力されて守ってこられたと思うと、胸が熱くなりますね。今残っている写真を見ると、現在境内に設けているスタジオの付近に目黒大仏が置かれていたようです。

ご住職の弟さんがミュージシャンということもあり、境内に設立された「蟠龍寺スタジオ」。このあたりにかつて「目黒大仏」があったのだ。吉田さんは子供の頃、スタジオの店番をしていた年上の男性とここでロックのレコードを聴き合い、音楽談義に花を咲かせていたそう。
ご住職の弟さんがミュージシャンということもあり、境内に設立された「蟠龍寺スタジオ」。このあたりにかつて「目黒大仏」があったのだ。吉田さんは子供の頃、スタジオの店番をしていた年上の男性とここでロックのレコードを聴き合い、音楽談義に花を咲かせていたそう。
──こちらがそのスタジオですね!
吉田さん

もともと辯天様という伎藝の神様を祀っていますし、浄土宗としても録音ができるお寺があればプラスになるのではということで、境内に建てたのが始まりです。浄土宗のお経や雅楽のCDの録音に関わったり、少人数のライブも行なったりしています。

──本堂でも、アコースティックライブなどイベントが毎週のように開催されてらっしゃるんですよね。日本の伝統に則ったものに限らず、とても幅広いラインナップです。
吉田さん

お経の中に「極楽浄土の中では常に妙なる音が流れていて、その音を聞く者は自然と修行の理解が進んでいく」という意味の文が出てくるのですが、それを模した形で、雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)が飾られている本堂でパフォーマンスしていただいています。今レジェンダリーになっているものは、当時最先端だったものだったりしますし、今の我々が今の手段で音を出すということに意味があると思っています。そうしたものに触れることで生まれる問いや、自分の中のなにかに気がつく経験を日常にお持ち帰りいただけたらと思って開催しています。

本堂壁の雲中供養菩薩は、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩をモデルに、平成の中頃に彫られたもの。琵琶などの楽器や旗、天蓋などを手に舞う。この菩薩像や御本尊に見守られる中で、音楽ライブやアート展示、死後の自分について考える「死の体験旅行(R)」などの催しが行われる。
本堂壁の雲中供養菩薩は、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩をモデルに、平成の中頃に彫られたもの。琵琶などの楽器や旗、天蓋などを手に舞う。この菩薩像や御本尊に見守られる中で、音楽ライブやアート展示、死後の自分について考える「死の体験旅行(R)」などの催しが行われる。

「できない自分」を救うセーフティネット

──浄土宗では、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるという「他力(たりき)」の教えを説いていますよね。自分で頑張ればいいことがあるというのが常識になっている現代人には、厳しい修行で悟りの世界を目指す「自力(じりき)」の教え以上に、理解するのが難しい教えのような印象もあります。浄土宗の教えについて、吉田さんのお考えをお聞かせいただけますか。
吉田さん

法然上人は、他の宗派で説かれている仏の教えは、まったくもって素晴らしいもので、正しく悟りの世界に導くものだけれど、それを受容する私が腐りきっていてその修行に耐えられない、とお話をされています。法然上人はもともと天台宗のお寺で修行されていて、「止観(しかん)」という行(ぎょう)などでご自身の心を整えてらっしゃったのですが、お手紙の中で「自分の心は常に散乱して、あっちこっちに渡っていく猿のようなもので、全く静まることがない。そういう心持ちのままで、いったいなぜ私が悟りの境地にたどり着けるだろうか」とおっしゃっています。そういう「できない自分」をご自覚された絶望の中でお経を読み、「あなたを救いたい、それは阿弥陀仏の願いだからだ」という意味の一文に出会われました。そこで初めて、修行を完成させることもできない劣った自分が救われるのは、その阿弥陀様の誓願力しかないんだと気づかれたんです。僕は、自分も同じルートを辿らないとちゃんとその教えをいただけないような気がしています。

──法然上人は勉学に励んで“智慧第一”とも讃えられた方だそうですが、それでもそんな絶望が。吉田さんにとっても、その絶望に相当するものがあったのでしょうか。
吉田さん

自分の中でずっとテーマになっているのは、大学時代に感じていた、期待に応え続けて生きていくことの辛さです。僕らが大学生だった時代はまだバブルの残り香があった頃で、背伸びをしてお互い削り合うような、今でいうマウントの取り合いになるケースがあったりしたんです。僕はあまり断れないタイプの人間で、断ると自分と繋がってくれる人がいなくなってしまうっていう恐怖感、見捨てられ不安みたいなものがあったんでしょうね。自分に価値を見出せなくて、誰かのために無理して働いたり、一所懸命期待に応えようとして、自分がどんどんすり潰されていったり。自分は果たしてここにいていいんだろうか、と思うことがありました。どれだけ頑張ってもみんなが思うような自分にはなれないし、「吉田さんって〇〇ですよね」って人が言ってくれることを一生続けてかなきゃいけないのかと思うと、だいぶ気が重かったですね。大学の中で学びたいことが見つけられず、学業への思いが細くなったこともあって、自分をどこかに逃がすために学校に行くふりをして時間を潰して帰ってくるようなこともあったり。法然上人の絶望とは違うかもしれないけど、生きづらいな、ままならんなあ……っていう思いがずっとありました。「ここではないどこか」へのかすかな希求みたいなものは、その時点にあったのかもしれません。

──キャパシティを超えて頑張り続ける世界から降りられない、という経験がおありだったのですね。そこからお坊さんになることに納得されるまでの道のりについてもお聞かせいただけますか。
吉田さん

大学時代まで、僕はお念仏への疑問を抱いていたんです。お念仏の教えで救われるっていうことが、綺麗事にしか思えなかった。南無阿弥陀仏ってとなえたからって、今何が変わるわけでもないじゃん、と思っていたんですよね。その疑問が解消できなかったら、僕はお坊さんになるのをやめてミュージシャンになろうと思っていました。

そんな時、僕の父が心筋梗塞で倒れたんです。幸い後遺症もなく復帰したんですけど、先代の住職だった祖父が一人で法事をするのは難しくて、僕も手伝うことになりました。勉強するためにどうしてもお経に触れることが増えて、お念仏への疑問がより明確になってきたんですよね。

はっきり文章に書き残されているわけではないのですが、法然上人はどこかで絶望を抱えているはずだと感じました。そうじゃなかったらこのお念仏の教えは心に入っていかないような気がしていたんですね。一般の大学を卒業して大正大学で仏教を学んでいたときに、先生にその疑問をぶつけたら「ああ、そうですね」って全肯定されて。それならすごく納得できる! ってその時初めて思えたんです。

お坊さんになるための修行の最後に、あなたはこれできちんと教えを受け継ぎましたと認められるお作法があって、修行僧が順に前に出ていくんですけど、それが終わって自分の席に戻った時、僕めっちゃ泣いたんですよ。これで俺は救われたんだ、って実感できたんです。それがあったから、今こうしてお坊さんが続けられているんだと思います。

吉田さん:僕らのお念仏の教えっていうのは、大きな仏教の中でも、セーフティネットとして機能するのかなと思っているんですね。さきほどおっしゃっていただいたように、自力っていうものに我々はあこがれるし、それによって人間の社会は発展してきたわけです。でも、人生において自分の限界や挫折を知ることもあるわけですよね。自分のキャパシティがこれ以上広がらないのかも、ということが目の当たりになるときにこそ、お念仏の教えっていうものは沁みていきやすいのかなと思うんです。「俺は自分でできる」と思っている人に、「いや、できないですよ」と言ったって、それは絶対受け入れられない。他人に言われてそれを理解するのは、たぶん無理だと思うんですよね。修行としてはすごく簡単で、南無阿弥陀仏って唱えなさい、それだけに尽きます。でも、それを受け入れる自分になるには、徹底して冷徹に自分の器を見続ける必要があるんです。気がつくだけの何かが整ったときに、初めてその光が見えるものなんだろうなと思っています。

吉田さん:法然上人のお歌で、「月かげの歌」という、浄土宗の宗歌になっている和歌があるんです。

「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

これは、阿弥陀如来の誓願の力を月の光に例えてお詠みになられた歌だと受け止めています。月の光はそこかしこに降り注いでいるけれど、月を眺めた人だけが月の光が降り注いでいるのだと知ることができます。それに気がつかずに下を見て歩いている人には、なぜ明るいのかはわかりません。誓願の力が我々に働いて、劣った我々をも照らしてくれるっていう思いになれたときに、初めて顔を上げて月を見ることができるんだと思うんです。自力の世界からこぼれ落ちてくる人たちがいる。でも大丈夫だよ、阿弥陀さんは見捨てないから。あなたがダメだと思っても、そのダメなあなたを救いたいっておっしゃってくださっている阿弥陀如来がいるから、大丈夫。失敗しても大丈夫。って言えるのが、僕らのよさかな。僕が生きづらいと思っている中、それでも少しずつ生きていけるって思えたのはそういう部分なんですね。

 

──ダメなところばかりの自分の心に、お話がとても沁みてきます。私もかつては、昔の人はそういう教えを信じていたんだなあ、でもなんか甘えているような感じがするし、自分はいいや、と他人事だったんですが、自分があまりにダメすぎて限界になったときにそういうお話をお聞きして、「もしかして、こんな自分でもいいんだよっていう教えなの!?」と思ったら急に心が惹かれてきました。どんなにダメな自分であっても生きていて大丈夫、って安心できたら、それが力になってちょっとずつ自分のペースで歩んでいけるのかなあって。こうして教えを絶やさず伝え続ける僧侶の方がいらっしゃるからこそ、現代の私たちが生きるヒントを受け取れるんだなあとあらためて思いました。
吉田さん

ありがとうございます。自力で進める人はどんどん進んでもらっていいんですよ。でも僕はそうはなれないし、そうなれない人がいることも知っているので。どこかで芽吹くかもしれないので、あなたの助けになる種をまきたいなあと思っています。

──その種を、確かに受け取らせていただきました!教えをさかのぼって、法然上人が修行されていた天台宗のお寺にも伺ってみたく思うのですが、お知り合いの僧侶の方をご紹介いただけますでしょうか。
吉田さん

天台宗・普賢寺の小野常寛さんをご紹介します。仏教の教えについて先日メッセージのやりとりをしたばかりです。オンラインの坐禅会をされてらして、海外の方とも広くお繋がりがある方です。

──ありがとうございます、ぜひお話を伺いたく思います!

吉田龍雄さんプロフィール

1974年 東京・目黒生まれ。早稲田大学卒業後、大正大学人間学部浄土学専攻に入学、卒業。大本山増上寺にて16年間奉職し、アート活動を通してお寺を知ってもらう活動に取り組む。2017年、生家の蟠龍寺に入寺し副住職となる。増上寺勤務時、来場者に「お寺はあなたを問う場」と僧侶から伝えることで、仏教とアート活動をつなぐ活動を市民に浸透させていった。1人1人の顔が見える距離感を大切に、仏教との縁を深めてもらうべく、様々なスタイルの行事を通じて、古来寺院の担ってきた役割を現代的に実践している。

蟠龍寺 Facebookページ https://www.facebook.com/vanryuji344/

 

住所:東京都目黒区下目黒3-4-4/営業時間:9:00〜17:00/定休日:無/アクセス:JR山手線・地下鉄南北線・東急目黒線目黒駅から徒歩12分

取材・文・イラスト・撮影=増山かおり