いつか父の味を世に出すことを夢見て飲食の道へ。思い出の牛テールカレーを商品化
かつて新橋でラーメン店の店長として働いていた店主の横山義さんが、2016年10月に独立・転身し、『curry and rice 幸正』をオープンした。そもそも飲食の道に入ったきっかけは「いつか父がアメリカで留学したときに、下宿先の家族にふるまっていたという牛テールカレーを世に出すことだった」と話す。店名の『幸正』とは、お父様の名前だ。
「お人好しで人に騙され、借金を作って酒に溺れたしょうもない父でした。私が高校1年生のときに亡くなってしまったんですが、数少ない思い出のひとつが、この店のベースになっている牛テールカレーなんです」。
「常に酒を飲み、ずっと酔っていた父からある朝早くに起こされて、突然『カレーを作ってやる』と。ふたりで肉屋に牛テールを買いに行き、1日かけてカレーを作ってくれたんです。すごく楽しくて、もちろんおいしくて。今もカレーを作っていると、父と会話しているような気がするんですよ」と微笑む。
また、これまでの飲食店運営の経験から「だいたいの人は1食に1000円以上のお金を出しにくい」という実感があり、それならラーメンやカレーが良いだろうと思っていた。「でも、ラーメンはあの手この手が出し尽くされていて打ち止め感がありました。その点、まだカレーは可能性があったし、1000円以上の価値があるカレーを作る自信もありました」。
開業前に渾身の一杯が出来あがったときには、このビーフカレーで近いうちにビブグルマンを獲ることも想定していたそうだ。その通り、オープンから2年後の2018年、『ミシュランガイド東京2019』に紹介され、予測が現実となる。以降、毎年その栄光を獲得、カレーの名店として不動の地位を築いた。
こんなカレー初めて! 味も見た目もエンタメ要素モリモリのビーフカレー
食べるならやっぱり看板メニューのビーフカレーだな、と心に決めているのだけど、ランチメニューに目を通す。ビーフ、ポークときて、ブ、ブ、ブリ⁉ これも気になるが、またの機会にしておこう。
さて、ビーフカレーはどんな工程で作られていくのだろう。横山さんはまず、頂上に乗る肉から調理に取り掛かった。
次は2層のご飯。「カレーにはターメリックとトマトを使うのがセオリーだな、という発想がありました。カレーのルゥの風味を立たせるためにご飯にターメリックとトマトを混ぜています」。
テーブルに運ばれたビーフカレーは、黄色い海に漂うごちそう小島とでも言おうか。3層になったカレーなんて初めてだ。どうやって食べたらいいのか迷う。
横山さんは「食べ方は人それぞれですよ(笑)。分解して1つずつ味わう方もいれば、全部混ぜてしまう人もいます。これは“映え”とかを狙ったわけじゃなくて、ひとつひとつ違う個性を持つ食べ物が、一つに合わさるとすごくおいしくなるという面白さがあるんです。これをヒトに置き換えると、いろんな個性があって、さまざまな考え方もあってひとつの世界になっているんだよ、という私のメッセージも込められているんです」と教えてくれた。
スープは見た目よりやさしい味わいで、ターメリックとトマトのご飯を一緒に食べるとスパイシー。さらにトマトご飯に染み込んだビーフのタレの旨味が加勢する。ターメリックご飯の中に入っていた甘酸っぱいゆず大根が、パリポリといい食感を醸し出し、まるで福神漬けみたいな感じ。へぇ〜、面白い! 刺激が強くはないが、食べ進めていくうちにピリッと辛さもあって体がポカポカしてきた。牛肉も合わせて食べるとさらにパンチのある味わいに変化する。こりゃあ並んでも食べたくなるはずだ。
「いい店がいっぱいある」。新橋の魅力発信に一役買えたらいいな。
横山さんがこの店を作りたい理由はもうひとつあった。「消費税が10%に上がり、その次にコロナが来て新橋の飲食店も景気が悪くなってきました。そんななか“新橋に人を呼ぶ店を作りたい”とも思ったんです」と話す横山さん。
店までは駅前の繁華街を抜け大通りの環二通りを渡らないとたどり着けない。わざと駅から離れている場所を選んだのも狙いのうちだ。「ウチに来るまでに、寄り道したくなっちゃうステキな店がいっぱいありますから。また新橋に来ようと思えるきっかけになってくれたらいいですね」と横山さんは語っていた。
新橋といえば、江戸末期から隆盛した花柳界があったことでも有名だ。つまり、華やかな芸妓衆とともに美食でも栄えた街。それからおよそ200年。『curry and rice 幸正』こそグルメの街・新橋の健在を誇る店のひとつである。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢