「何に使われていたのだろう?」と疑問になるエンジンシャフトやレール、長年の風化により骨組みになっていく建物が、次々と現れます。右手に「第二竪坑入坑桟橋」と呼ぶ遺構が現れました。これ以上崩壊しないよう、剥き出しの階段に補強を施しています。ここは第二竪坑(たてこう)のエレベーターがありました。エレベーターの巻揚げ櫓は高く、遠くから島を見てもかなり目立っていました。軍艦島のシンボル的存在だったのです。
第二竪坑は端島炭坑の主力坑で、地下606mまで垂直下降し、底部に到着するとしばらく平行の坑道を進み、さらに地下1010mまで斜坑が続いていました。海から1000mも地下にある坑内は気温30℃、湿度95%という環境。炭坑マン達はヘッドライトで明かりを灯しながら、過酷な環境下で採掘作業を行い、終業後は再び竪坑から地上へ出て、共同浴場で汗を流したのです。

その浴場の一つは、第2見学広場に広がる遺構「総合事務所」にありました。広場からは見えないのですが、レンガ壁面の裏手に浴場があり、汚れ落としから上がり湯まで浴槽が分かれている構造でした。
端島は水が貴重であったため、風呂水も上がり湯以外は海水を使用していました。汗だくの体は海水の湯船でさっぱりしたのか……気になるところです。なお島内で風呂付きの住宅は、山頂にある幹部職員用の3号棟で、その他の住民は点在する共同浴場を利用していました。
目の前の総合事務所は自然崩壊に任せるかのように朽ちながらも、裏側から補強されています。崩壊しかけている姿でキープするのは容易ならざること。島内全ての遺構がこうして補強されているわけではありませんが、一部でも崩壊しないよう補強されている姿には、軍艦島を現状のまま保存しようという人々の試行錯誤と努力を感じます。
点在する護岸は幾度の埋立拡張を物語っている
第2見学広場の後ろを振り返ると、波を受け止めてきた護岸があります。手前側は赤土の石垣となっていて、これが「天川(あまかわ)工法」と呼ばれるもの。明治初期はこの石垣で外海の波を受けていたのですね。台風が来たらさぞかし心細かったことだろうと思わずにいられません。明治末期からコンクリート技術が生まれ、軍艦島はすぐに導入しました。天川の護岸にコンクリートで増設され、そのツギハギの痕跡が技術の歴史を物語っています。


護岸沿いの見学路を歩きます。左手の護岸は背丈以上の高さで、海原がまったく見えません。台風や大しけになるとこの高さよりも波飛沫が飛んだそうですから、このコンクリートの塊が命を守る壁でした。とはいっても、島内では台風の波もイベントの面があったようで、軍艦島の古写真には目の前の高波をのどかに見物する住民達が写っていました。

護岸に沿って歩きながら気になるのは、向かって右手、つまり島の中心側にも護岸(防波堤)の遺構が点在することです。内陸なのに防波堤があるの?と疑問が浮かびます。これは全国の沿岸部を行くと現れる「内陸の地面に防波堤がニョキっと生えている=後年に海側が埋立拡張された名残り」と同じですね。
私が立つ見学通路は明治32年(1899)と明治40年(1907)に拡張された部分です。右手に見える護岸の痕跡は、明治30年(1897)年まで護岸として現役だった遺構となります。
島は明治26年(1893)から数年おきに埋立拡張されて、昭和6年(1931)に現在の形へと落ち着きました。地中から生えるようにして聳え、所々折れて崩壊している護岸は、拡張していった島を表す証拠なのですね。いわば年輪みたいなものか。それにしても、狭い空間で用済みの護岸は邪魔にならなかったのだろうかと、いらぬ心配をしてしまいました。
では、第3回はここまで。次号はラストに相応しい大正時代の日本初のRC造高層アパート、30号棟を中心にお伝えします。
取材・文・撮影=吉永陽一