軍艦島。過去には上陸チャンスがあったけれども行くことはなく“憧れの場所”に行きたい行きたいと、ずっと想いを馳せていた島。この度、やっとのことで軍艦島へ上陸しました。廃墟好きではなくとも、その名を聞いたことがある人は多いことでしょう。インパクトある名は通称で、島名は端島(はしま)といいます。南北480m、東西160m、周囲1200mという小さな島は、良質な石炭が採掘される海底炭鉱がありました。
軍艦島観察記その2です。今回は海から眺める島の外観と、上陸地点のお話です。さっそくスタートしましょう。端島(はしま)は1810年頃から佐賀藩による採炭が行われ、1890年(明治23)から三菱合資会社(当時)による本格的な操業が始まり、端島炭鉱となります。島に坑口があって、竪坑(たてこう)で地下を垂直に降下したあと、約1km南西の三ツ瀬という岩礁まで、海底約1000mも坑道が掘り進まれていました。海底の地下は地熱が酷く、気温は30℃、湿度は90%以上。岩盤浴のような蒸し暑い状況下で採掘する過酷な環境でした。その代わり鉱員の給与は破格の高さで、戦後は一般公務員の手取り月収の10倍もあったとのことです。
見学通路沿いに見られる遺構。こういう何気ないものも「現役のころはどんな役割だったのだろう」と想像すると楽しい。ここは護岸に寄り添う部分で、1907年に埋立拡張した場所。
坑内のトロッコレールかと思ったが護岸付近に遺棄されていた。鉄材として再利用されたものか。潮風と雨による腐食で木片のように朽ちている。
第二竪坑入坑桟橋手前にはレールやエンジンシャフトっぽいものが赤錆びて遺棄されていた。
謎のエンジンシャフトと第二竪坑入坑桟橋。竪坑施設の階段は崩落防止の補強を施している。軍艦島が世界遺産となり、こうして一部は補強して現状維持している。
「何に使われていたのだろう?」と疑問になるエンジンシャフトやレール、長年の風化により骨組みになっていく建物が、次々と現れます。右手に「第二竪坑入坑桟橋」と呼ぶ遺構が現れました。これ以上崩壊しないよう、剥き出しの階段に補強を施しています。ここは第二竪坑(たてこう)のエレベーターがありました。エレベーターの巻揚げ櫓は高く、遠くから島を見てもかなり目立っていました。軍艦島のシンボル的存在だったのです。
第二竪坑は端島炭坑の主力坑で、地下606mまで垂直下降し、底部に到着するとしばらく平行の坑道を進み、さらに地下1010mまで斜坑が続いていました。海から1000mも地下にある坑内は気温30℃、湿度95%という環境。炭坑マン達はヘッドライトで明かりを灯しながら、過酷な環境下で採掘作業を行い、終業後は再び竪坑から地上へ出て、共同浴場で汗を流したのです。
第2竪坑入坑桟橋の建物群。一段高い建物の背後に竪坑の巻揚げ櫓の鉄塔があった。
第2見学広場前のレンガ遺構は総合事務所の一部とのこと。レンガ壁面の裏手に浴場があったそうだ。右は第2竪坑入坑桟橋。山頂の建物は貯水槽で、戦後長崎半島から海底水道が整備されてこの貯水槽へ真水が汲み上げられ、軍艦島の水環境は改善された。
第2見学広場前のコンクリートは地下トンネルの天井部。桟橋から30号棟付近まで続いており、島民が上陸したときに利用した通路とのこと。
その浴場の一つは、第2見学広場に広がる遺構「総合事務所」にありました。広場からは見えないのですが、レンガ壁面の裏手に浴場があり、汚れ落としから上がり湯まで浴槽が分かれている構造でした。
端島は水が貴重であったため、風呂水も上がり湯以外は海水を使用していました。汗だくの体は海水の湯船でさっぱりしたのか……気になるところです。なお島内で風呂付きの住宅は、山頂にある幹部職員用の3号棟で、その他の住民は点在する共同浴場を利用していました。
目の前の総合事務所は自然崩壊に任せるかのように朽ちながらも、裏側から補強されています。崩壊しかけている姿でキープするのは容易ならざること。島内全ての遺構がこうして補強されているわけではありませんが、一部でも崩壊しないよう補強されている姿には、軍艦島を現状のまま保存しようという人々の試行錯誤と努力を感じます。
右側の総合事務所は端部に曲線を施した構造だったようだ。
炭鉱の中心的役割をしていたためなのか、レンガの壁面といい他の建物にはない瀟洒な構造が見て取れる。手前のコンクリート片は1897年までの護岸跡。私が立つ位置は1899年に埋立拡張された。
点在する護岸は幾度の埋立拡張を物語っている
第2見学広場の後ろを振り返ると、波を受け止めてきた護岸があります。手前側は赤土の石垣となっていて、これが「天川(あまかわ)工法」と呼ばれるもの。明治初期はこの石垣で外海の波を受けていたのですね。台風が来たらさぞかし心細かったことだろうと思わずにいられません。明治末期からコンクリート技術が生まれ、軍艦島はすぐに導入しました。天川の護岸にコンクリートで増設され、そのツギハギの痕跡が技術の歴史を物語っています。
第2見学広場の後ろは1907年に埋立拡張された箇所。手前の赤土と石垣が「天川」である。崩壊しているのは島が無人になってからか、それ以前かは不明だが、天川の護岸が後年にコンクリートで補強されているのが分かる。
1897年までの護岸越しに総合事務所(右)と会議室(左)の部分を覗き込む。両建物は渡り廊下で結ばれており、まだ崩壊せずにしっかりと残る。手前の護岸は倒れているが、この部分も天川で施工され後年にコンクリートで補強された構造が分かる。
護岸沿いの見学路を歩きます。左手の護岸は背丈以上の高さで、海原がまったく見えません。台風や大しけになるとこの高さよりも波飛沫が飛んだそうですから、このコンクリートの塊が命を守る壁でした。とはいっても、島内では台風の波もイベントの面があったようで、軍艦島の古写真には目の前の高波をのどかに見物する住民達が写っていました。
1897年までの護岸。コンクリート製である。これより右側は1899年に埋立拡張された。ということは、島が現役のころ、この一帯は用済みとなった護岸が地面から生えているように立っていたことになる。
こちらは1899年に拡張された際に整備されたコンクリート護岸。この外側は海である。海が気になるけれど背丈以上の高さなのでうかがい知れない。劣化により鉄筋がチラッと覗いていた。
総合事務所付近の反対側の護岸には僅かながら海が見えた。半島から伸びてきた海底水道管がこの穴を伝って上陸して山頂の貯水槽へ繋がっていた。サイフォンの原理で、菅が満水になっていれば自然と水が貯水槽へ組みあがっていた。戦後に水道管が整備されるまでは海水の蒸留と水運搬船が頼りで、真水は大変貴重だったという。
護岸に沿って歩きながら気になるのは、向かって右手、つまり島の中心側にも護岸(防波堤)の遺構が点在することです。内陸なのに防波堤があるの?と疑問が浮かびます。これは全国の沿岸部を行くと現れる「内陸の地面に防波堤がニョキっと生えている=後年に海側が埋立拡張された名残り」と同じですね。
私が立つ見学通路は明治32年(1899)と明治40年(1907)に拡張された部分です。右手に見える護岸の痕跡は、明治30年(1897)年まで護岸として現役だった遺構となります。
島は明治26年(1893)から数年おきに埋立拡張されて、昭和6年(1931)に現在の形へと落ち着きました。地中から生えるようにして聳え、所々折れて崩壊している護岸は、拡張していった島を表す証拠なのですね。いわば年輪みたいなものか。それにしても、狭い空間で用済みの護岸は邪魔にならなかったのだろうかと、いらぬ心配をしてしまいました。
では、第3回はここまで。次号はラストに相応しい大正時代の日本初のRC造高層アパート、30号棟を中心にお伝えします。
軍艦島。過去には上陸チャンスがあったけれども行くことはなく“憧れの場所”に行きたい行きたいと、ずっと想いを馳せていた島。この度、やっとのことで軍艦島へ上陸しました。廃墟好きではなくとも、その名を聞いたことがある人は多いことでしょう。インパクトある名は通称で、島名は端島(はしま)といいます。南北480m、東西160m、周囲1200mという小さな島は、良質な石炭が採掘される海底炭鉱がありました。
軍艦島観察記その2です。今回は海から眺める島の外観と、上陸地点のお話です。さっそくスタートしましょう。端島(はしま)は1810年頃から佐賀藩による採炭が行われ、1890年(明治23)から三菱合資会社(当時)による本格的な操業が始まり、端島炭鉱となります。島に坑口があって、竪坑(たてこう)で地下を垂直に降下したあと、約1km南西の三ツ瀬という岩礁まで、海底約1000mも坑道が掘り進まれていました。海底の地下は地熱が酷く、気温は30℃、湿度は90%以上。岩盤浴のような蒸し暑い状況下で採掘する過酷な環境でした。その代わり鉱員の給与は破格の高さで、戦後は一般公務員の手取り月収の10倍もあったとのことです。