世界中の人が来てくれる店を目指して、東十条の行列店が秋葉原へ移転
店主の本田祐樹さんは、『東池袋大勝軒』創業者・山岸一雄氏の弟子・麺屋こうじグループ田代浩二さんの愛弟子。『中華蕎麦とみ田』『麺屋一燈』を輩出した田代さんが育てた名店店主の1人だ。
ラーメン界のサラブレッドといえる本田さんだが、茨城県牛久市で生まれ育った子供の頃は、それほどラーメン好きではなかった。ラーメンとの出合いは高校生の時。近所に開店した田代さんの店『牛久大勝軒』で、高校3年間アルバイトをしながら賄いでラーメンを食べるうちに、少しずつラーメンに興味を持つようになったという。
高校卒業後は、東京に出て一旗あげようと、レストランでアルバイトをしながらフリーター生活を送っていた。その頃には、ラーメン本を片手に食べ歩くようになっていた。
フリーター生活2年目、アルバイト時代から気にかけてくれていた田代さんが店舗展開していく中で、本田さんに「ラーメン屋をやってみないか」と声をかけた。「22歳までには自分の道を見つけたい」と思っていた本田さんは、茨城に戻って麺屋こうじグループ店で腕を磨く。
修業すること1年、東十条の物件を田代さんが見つけてきた。そこは何度もラーメン屋が入居、撤退を繰り返していた居抜き物件。「すぐ近くにやきとんの行列店があるから、ラーメン屋もおいしいのを出せば並ぶだろう」。そう田代さんに言われて、2008年2月15日『麺処 ほん田』はオープンした。
最初は苦戦したものの、半年経った頃からメディアで取り上げられ、行列が絶えない店となった。田代さんの支援で開業したが、1年も経たないうちに店を買い取り独立を果たす。「自分がオーナーになれば、もっと頑張れると思ったんです」と本田さん。
ここで10年頑張ろうという気持ちで始めて12年が経った時、秋葉原出店のオファーが舞い込んだ。ちょうどカウンター9席の東十条の店が手狭になっていた。「海外進出という夢もあったけど、だったら都心に出て、世界中から来てもらえる店を作ろうと。ラーメンは東京が世界一じゃないですか。その中で戦おうと思ったんです」。2020年4月15日、秋葉原への移転を機に、長年の夢だった自家製麺も始めることにした。
全メニューリニューアルと念願の自家製麺で、ラーメンの味をさらに進化
秋葉原移転でラーメンをすべて見直すことにした本田さん。これまでのラーメンを全部捨てて……と、ほん田ファンは驚いただろう。「リニューアルはしたけど、自分の中では全捨てではないんですよ。今までやってきた知識や経験とか、それが自分の中で残ったうえで新しい味にしてるんです」。そう語る本田さんが、一杯のラーメンを作ってくれた。
看板の醤油のラーメンは、「結構スープが濃いんですよね。すっきりしてるけど食べ応えがあるのを目指してます」というように、鶏や豚、煮干しが効いた中に、貝の旨味がじんわり。出汁を重ねた旨味に、醤油のキレもよいスープだ。ハマグリや牡蠣など高級食材も使われていて、さらなる味のレベルアップに一役買っている。
こだわりの自家製麺がスープの味をさらに引き上げる。少し強めの醤油の塩味は自家製麺の国産小麦の甘みと相まって、ほどよいバランス。鶏と豚3種のチャーシューと味付け濃いめのおつまみにも最適なメンマ、味玉、しっかり弾力ある麺まで食べきると、たしかに食べ応えある一杯だ。
新生ほん田のラーメンは、ちょっと贅沢をしたい日の“ご褒美ラーメン”
ラーメンの味を常に変えながら、業界のトップランナーとして走り続けてきた本田さん。「今でもほかの店を食べ歩いて勉強して、良いところはどんどん吸収しています。食べることが好きなんで、ラーメン以外も結構食べるんですよ。7年ぐらい前、池袋の鰻の名店『かぶと』で、先代の親父さんからすごくいい話を聞いて、仕事に対する意識が変わりましたね」。
秋葉原への移転にあたり、さすがの本田さんも全メニューリニューアルで一抹の不安はあったが、大勢のお客さんが駆け付けてくれた。「昔のラーメンを食べたいよって言う常連さんもいますけど、なんだかんだ言って来てくださるのがうれしいですね」。
店舗展開もしてきたが、今は秋葉原本店で厨房に立ち、店主自らラーメンを作ることにこだわる。「この店を40歳まで頑張ろうと思ってます。1年頑張れたらもう1年、頑張るのに必死ですよ。結構心を燃やしながらやってます」。頑張れば頑張った分だけ自分に返ってくる、それがラーメン屋の魅力だという本田さん。
新しい『ほん田』のラーメンは、「日常使いというより“ご褒美ラーメン”みたいなイメージで作ってるので、そういう気持ちで来ていただけたらいいですね」。まずは、全国から来てもらえる店が今の目標だ。日本中の人に食べてほしい一杯は、世界中の人に食べてもらいたい一杯へと繋がっている。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=大熊美智代