「とにかく人が好きなんです」
学生街によくある昔ながらの喫茶店。オープンは昭和49年(1974)だ。飴色の木材を多用した内装に、籐の背もたれのパイプ椅子、温かみのあるオレンジ色の照明がほのかに壁を照らす。思わず長居してしまいそうな落ち着いた内装だ。佇まいに歴史を感じさせるが、店内は清掃が行き届き、床は磨かれて清潔感がある。
店主の堀井敏弘さんは昭和27年(1952)生まれというが、とても年齢を感じさせないほど若々しい。この日、店内に流れていたBGMの「スピッツ」も堀井さんの趣味だという。学生時代に大手町の喫茶店でアルバイトをしたことがきっかけでコーヒーの魅力を知り、そのままここで開業して現在まで46年が経つという。安価なチェーン店やサードウェイブコーヒー店が流行し、こうした個人店の多くが姿を消すなかで、スタイルを変えずに長年続けてきた秘密を堀井さんに聞いた。
「とにかく人が好きなんです。店にいると、本当に色々な人と話せますからね。普通ではとても会えないような人にも会える。こんな商売はないですよ。」と笑う。「ここにいることで、人を作る人にもなりたいですね」とも。
カウンターには、人気アニメのフィギアがずらりと並ぶが、これも堀井さんが最初に置いた1つを除き、すべてお客さんが持ってきたものだそう。さらに壁には映画のポスターが貼られ、よく見ると俳優や脚本家のサインもごく控えめに飾られている。
佐藤浩市さんの相談にものっていた
また、この店は俳優の佐藤浩市さんが学生時代に1年間アルバイトをしていた店としても有名だ。堀井さんは、その頃、まだ本格的に俳優を目指すかどうか決めかねていた佐藤さんの相談にものっていた。その後の佐藤浩市さんの活躍は周知のとおり。また、子役も多く輩出している芸能事務所が近くにあることから、若手の役者さんも多く訪れるという。そんな役者さんからの申し出で、店内を劇場に見立てて演劇を上演したこともある。近くに熊谷組の社屋があることから会社員も多い。さらに、かつては都内有数の花街だった神楽坂という場所柄、芸者衆や小唄の師匠などが足を運んでいたそう。
そんなこともあってか「ここに来るとオーディションに受かる」「商談が成立する」「運気が上がる」などの噂が広まり、ちょっとしたパワースポットになっているのだそう。
しかし当の堀井さんは、そんなネットの噂にはどこ吹く風。流行には乗らず、開店以来、一貫してサイフォン式で1杯ずつ丁寧にコーヒーを淹れている。サイフォン式とは、コーヒーサイフォンというガラスの器具で、加熱によって蒸気圧で湯を上下させることで、粉からコーヒーを抽出する方法。19世紀のヨーロッパで発明され、大正時代に日本に入ってきたというなんともレトロなスタイルだ。薄いガラス容器越しに見るコーヒーは、目にも美しく、じっくり抽出される時間を待つのもどこかぜいたく。
ブレンドの豆は、マンデリンを中心に数種類の豆を堀井さんが味見し、独自の配合でブレンドする。専門業者からサイフォン式に一番適した状態に焙煎した豆が店に届く。そんなコーヒーの味は、ほどよい苦味があり、口当たりはまろやか。粉感や重さがなく、すっきりとした後味だ。ホットコーヒーは1杯550円。アイスコーヒー550円は、よく冷えた銅製のマグカップで供される。
ナポリタンなど、料理も絶品
料理の看板メニューは「ナポリタン」。いわゆる「喫茶店のナポリタン」によくある太麺でボリュームたっぷりというスタイルではなく、中太のやや柔らかめの麺に生のトマト、ベーコン、玉ねぎなど食べやすい大きさの具材が絡む。上品な味わいで、ボリュームもランチにちょうどいい。
ランチのパスタセットは、ナポリタンのほか、ボンゴレや和風きのこ、カルボナーラなど11種類のパスタから一品を選んで、サラダとコーヒーゼリー、コーヒーが付いて980円。大盛りはプラス100 円で注文できる。手作りのコーヒーゼリーは竹の容器に入った苦味が効いたゼリーに、ホイップクリームとチョコレートソースがトッピングされている。このほか、温かいフワフワの焼き玉子が入っている「タマゴサンドイッチ」(800円)も人気。
「珈留で」という一風変わった店名の由来をたずねると、「カルデというのは、エチオピアの牧童の名前なんです。この牧童が飼っていた羊が、初めてコーヒーの豆を食べたんです。そうしたら羊がなぜか興奮していた。それを見たカルデが驚いて、自分も食べてみたらやっぱり興奮したという。これがコーヒー発見の伝説といわれています」と堀井さん。
生粋のコーヒー好きで、コーヒーに関わって約半世紀だが、やはりコーヒーのある空間と、そこに集う人が好きなんだろう。最初にアルバイトしていた大手町のコーヒー店で、大人の流儀や礼儀を重んじた人付き合いを学んだそう。「若い人でマナーの悪い人には注意しますよ。それで来なくなることもあります。でもお客さんは若い人が多いですね。なんででしょうね」と堀井さんは笑う。とはいえ「頑固おやじのいる店」とは違う。あくまでも主体はお客さん。一人の時間を楽しみたい人には余計な接客をしない。誰も拒まない風通しのよい雰囲気がなんとも心地よく、常連が多いのも納得だ。現在は奥様と二人で切り盛りしているが、気が向いたら店を閉めて、お客さんと飲みに行ってしまうこともあるそう。閉まっていたときはご容赦を。また、ぶらりと立ち寄ってみたい一軒だ。
取材・文・撮影=新井鏡子