初代横浜駅の場所と開業時にあった海上築堤の場所
桜木町駅は1915年(大正4)に改称された駅です。それ以前は1872年(明治4)10月14日に本開業した横浜駅であり、日本初の鉄道の駅のひとつでした。日本の鉄道の出発点ですね。もう一カ所は新橋駅であり、あるいは本開業前に暫定開業した品川駅であり、とにかく横浜、品川、新橋駅は「日本初の駅」の称号が与えられています。
初代横浜駅舎は、アメリカ人設計士リチャードブリジェンスが手がけ、石造りの2階建てが中心部の平屋を挟む左右対称の駅舎でした。やがて日本初の鉄道は西へ進んで東海道本線の名称となり、初代横浜駅は途中駅となりました。
とはいえ駅構造が頭端式(とうたんしき。行き止まりのこと)で、線路が途切れた先から線路を敷設せず、地理的要因などによって、スイッチバックする線路を新設して西進しました。そして主に貨物列車のため、ショートカットの短絡線ができて三角線(デルタ線)が誕生。その三角線が南側で交じる付近に線路を追加して二代目横浜駅をつくり、初代は桜木町駅となったのです。
ところが関東大震災によって二代目駅舎は倒壊し、短絡線のところに三代目横浜駅を開業させます。それが現在の横浜駅です。二代目駅舎のあった場所は、ほとんど跡形もありません。
ということで、桜木町駅です。初代横浜駅舎はどこにあったのか、開業当時の錦絵と明治初期の迅速測図(地形図)、現在の地形図と衛星写真を照らし合わせ、大岡川に架かる弁天橋のちょっと北西付近だろうと推測して空撮しました。だいたいあっているはず。
もう一カ所、日本初の鉄道の線路があった場所を見ます。現在の横浜駅周辺は、明治のはじめにはまだ入江でした。埋め立てて現在の地形となったのです。入江だったため、初代横浜駅から幅の広い海上築堤を築いて線路を通したのです。その海上築堤は家も建つほど幅が広く、線路は左側、家と道は右側にありました。
この築堤造成を請け負ったのが、幕末期の商人から明治初期に実業家となった高島嘉右衛門で、築堤上の町はその名を取って高島町となり、現在の町名となっています。
では海上築堤の現在はどうなっているかというと、高島二丁目付近の首都高速道路の左側あたりと推測できます。入江が埋立てられていくと、境界がはっきりしません。京浜東北線の線路はトレースしているわけではなく、若干外側にあるようなのです。品川〜田町間で発見された「高輪築堤」のように、掘削すれば何か発掘されるのでしょうか。
東急東横線の高架跡はまだ残っている
桜木町駅へ戻ります。東急東横線の廃線跡を見てみましょう。東横線は2004年に横浜〜元町中華街間が地下鉄みなとみらい線と直結し、代わりに桜木町駅までの高架橋が廃止となりました。
その跡は、桜木町駅から140mほどが遊歩道化された他は、まだ再利用方法が検討されている段階で、整備が進んでいません。高架橋は京浜東北線と国道16号線に挟まれた複線分と狭く、高架下は歩道となっています。周囲の交通の妨げずに整備するのは簡単な話ではなく、横浜市としては歩行者専用道にする予定ではあるが、予算など一筋縄ではいかないそうです。
そのためか、途中駅であった高島町の島式ホームは点字ブロックもそのままの状態で、佇んでいます。都市部に残された高架駅のプラットフォームは廃駅から17年も経過し、上空から見てもコンディションは良くなさそうです。
先に進むと、東海道本線を跨いでいた橋梁部分にあたります。跨いだ真上は既に撤去済みですが、南側の帷子川を渡る前後の橋梁部は残されたままです。終端部分は東海道本線のホーム端からでも望めますね。
東横線の痕跡は渋谷駅周辺のようにすぐ遊歩道化とはならず、先行きはなかなか難しそうですが、うまく活用されたらなと感じています。
少々趣向を凝らし、二回に渡って全編空撮で廃なるものを追う内容でしたが、次回も懲りずに空撮であるところを紹介しようと考えています。またお楽しみに!
取材・文・撮影=吉永陽一