受験当日の朝のイライラ

朝、出社する姉と同時に家を出て、夕方まで高円寺の図書館、その後駅前のミスドに移動し過去問を解く。ミスドでは若者2人が大学卒業後に芸人としてやって行くべきか否かと熱い議論を交わしていた。香川でこんな話をする若者は見たことがない。これが東京だ。私も東京の熱い空気に身を置くために、今はとにかく勉強を頑張らなくてはいけないのだ。

2日後、最初の試験があった。第一志望ではなかったが、受験のペースをつかむ上で大事な日だ。家を出る前から緊張しつつ準備をしていると、姉が箱に入ったアソート的なチョコを「これ食べる?」と渡してくれた。チョコは脳の働きを助けると言う。姉なりに私を応援してくれているのだろうか。素直にありがとうと箱を受け取ろうとしたが、うっかり摑み損ね床に落としてしまった。箱はひっくり返り、チョコにかかっていたココアがカーペットにぶちまかれた。

あ、ごめんというより早く、「何しよんや!」と恫喝されビクッとした。ごめん、すぐ片付けるわと言っているのに「あんた人んちに泊まっとんのにええ加減にしなよ!」と追い込んでくるのでこちらもイラッとして「うっさいな! 片付けるって言うとるやん!」と口論になった。掃除機をかけると全く問題なくきれいになったが、姉の苛立ちはおさまらず、私もイライラしたまま家を出た。割と大事な日にこんなどうでもいいことで感情を乱されていることに腹が立つ。おそらく姉は姉で、お金の話を有耶無耶(うやむや)にしたまま素知らぬ顔をしている私に対する据えかねた思いが、表出したのだろう。

合格発表が始まると

その後、私の幼なじみも泊めてもらうことになり、1週間ほど約8畳の1Kに3人で寝泊まりした。私は非日常の毎日が楽しかったが、姉は生活のルーティンを乱されストレスを感じていたと思う。

やがて、合格発表が始まって私が幾つかの大学に受かったことがわかると、「ごめん、あんた全然勉強してないって思っとった。ただ受験にかこつけて東京に遊びにきたんかと思ってたわ」と急に態度が軟化した。しかし私は、何かしらの理由で金銭的問題が解決したから優しくなったのではないかと疑っていた。ボーナスが入ったか、それとも母親との金銭的交渉が私を介さず成功したのか。

それ以降、社会経験を積むにつれ、折に触れてあの日の姉の言葉を思い出す。姉は毎朝早くから夜9時くらいまで働いていた。確かに仕事が忙しいとき家に人が寝泊まりにくるのはストレスだ。私は、仮住まいへの感謝が足りなかったのだろう。それでもやっぱり、もし弟が受験の間泊めてくれと言ってきたとしたら、私ならお金は要求しないのではないかと思う。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2020年8月号より