真田幸村が「誕生」した理由と、真田家について

先ずは幸村こと真田信繁について簡単に紹介いたそう。

信繁殿の祖父は真田幸隆殿である。信玄殿が落とせなかった城をその策謀で攻略し、信玄殿から重用された人物じゃ。

その後、真田家は幸隆殿の嫡男・真田信綱殿と次男・昌輝殿が武田二十四将の一人に数えられるなど、武田家において重要な存在となっていく。

じゃが、長篠の戦いにて信綱殿と昌輝殿が共に討死すると跡を継いだのが、幸隆殿の三男で養子に出されていた武藤喜兵衛。後の真田昌幸殿じゃ!

昌幸殿は幼き頃から信玄殿の側仕えをしておって、父譲りの聡明さで信玄殿に大層可愛がられておったようじゃ。

信玄殿から「我が眼の如く」と称された話も残っておる。

本能寺の変以降の甲信の騒乱も、昌幸どのは持ち前の策謀で乗り切っておって、徳川、上杉、北条ら大大名を翻弄し本領を守り切っておるし、わずか二千の兵で城を徳川軍七千から守り切った第一次上田合戦は、現世でも人気の高い戦であるな!

そんな昌幸殿の次男として生まれた信繁(幸村)は父に習って寡兵での戦術を身につけた。

関ヶ原の戦いにて起きた第二次上田合戦では昌幸殿と共に徳川家を相手取り、三千の兵で徳川軍三万八千から城を守り切る快挙を成し遂げておる!

そして真田信繁の名が一躍有名になるのは大坂の陣。

冬の陣では大坂城に真田丸という出丸を築き徳川家を大いに苦しめ、夏の陣では徳川家の本陣へと肉迫し家康殿を討死寸前まで追い詰めたと伝わっておるわな。

徳川家からすると中々厄介な存在であったわけじゃ。

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さて、時代は流れ江戸時代に入り天下泰平の世がやって参った。

平穏な時代になると民は刺激を求め始める。そこで流行したのが戦国時代を題材とした物語であった。

しかも、江戸幕府という絶対的な存在に対し反目したくなるのが人間の“さが”であろう!

故に徳川家を悩ませた真田信繁は江戸時代の民たちとっては誂え向きの存在であった!最後潔く散ったところも判官贔屓(はんがんびいき)の日本人にはウケが良かったんじゃろうな。

江戸幕府が行った検閲

こうして民に好まれた軍記物なんじゃが、無論幕府からしたら好ましくないものであった。

名誉の問題はもちろんのこと、こういった書物が出回ると反幕府の機運が高まってしまう恐れもあるわな。

ということで、幕府は出版物を検閲し、戦国のことを語る書物の規制を行ったのじゃ!

令和七年の大河どらま『べらぼう』は蔦屋重三郎なる出版に携わる者が主役となっておる。その蔦屋重三郎が生きた時代から50年ほど前に「出版統制法」なるものが発令されておる。

書籍の出版を取り締まるこの法では、

・根拠のない怪しい話を発信しないこと
・恋模様を強く描く好色本の規制
・家康殿をはじめとする徳川家に関わる話

など多くの規制があった。他にも筆者と出版者を確(しか)と書くことや厳しい自己検閲を致す事が定められておって、出版業界としては難儀するお触れであったのじゃ。

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戦国の世の話が大人気であるのに、出版が禁じられてしもうた民は何を考えたのかと申すと、歴史物を創作と主張することであった!

要は偽名を用いて創作物として歴史物を出版したわけじゃな!

検閲を掻い潜るために生まれた武将。

それこそが「真田幸村」の存在である!

無論、幸村の他にも多くの戦国武将が名前を変えて様々な書に登場しておるぞ。

織田信長様は小多春永。

羽柴秀吉は真柴久吉。

石田三成は岸田光成といった塩梅じゃ!

他にも戦国時代のことを描く話で「これは南北朝時代のことなんじゃが」と前置きを入れることで検閲避けをしておるものもあったようじゃ。

戦国の話の他にも忠臣蔵なんかは大人気であったが、無論、幕府が許さなかったために時代や名前を変えて出版されておったようじゃな!

規制が増えてもそれをすり抜けて楽しむ民の強かさが現れる良い話であると儂(わし)は思うておる。

じゃが、幸村のおもしろき話はここだけにとどまらぬ。

信繁の名前が幸村としてあまりにも広まってしまったためか、公式の歴史書である徳川実紀にも幸村として名前が載っておるのじゃ!

それどころか、真田家が納めた松代藩の歴史書でも幸村の名が出て参る!

故に幸村の名は江戸時代に創作されたものではなく、実は信繁が本当に使っておった名前なのではないかとも囁かれておる。

くわしき事は分からぬがそれほどまでに定着した名前という事は間違いないわな!

徳川家に“勝利”したのは真田信之殿だった

して、民たちは強かに幕府の目を掻い潜って様々な本を出版しておったのじゃが、我ら大名はそうもいかん。

幕府に睨まれ改易されてはたまらんでな、江戸幕府が始まった折に徳川と関係の悪くなりそうな書は自ら処分したのじゃ。

我が前田家は特にそれが顕著であってな、関ヶ原の戦いで西軍に与した者たちとの書状は徹底的に処分したようじゃ。

儂の娘が嫁いだ宇喜多秀家とやりとりした書もほとんど残っておらん。

儂は立場上、様々な大名とやりとりしたがそれらの書も現世においては失われておるのじゃ。そのせいで儂は筆不精と言われたりもするんじゃぞ……。

我が嫡男の利長がやったのかそれ以降のものがやったのかは分からぬが、徳川の時代を生きる為には必要なことであったのじゃ。

故に徳川家に不利な書は姿を消し、徳川殿に都合の良い話ばかり今に伝わっておるとも言えるわな。

歴史は勝者によって作られるというやつじゃな!

じゃが、そんな「徳川家による歴史」に打ち勝った戦国武将がおるのを知っておるか?

その名も真田信之殿じゃ!!

信繁の兄にあたる人物じゃな!

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関ヶ原の戦いの折に昌幸殿と信繁が西軍についた時、信之殿は東軍についた。

これは信之殿の正室が本多忠勝殿の娘であることも関係しておる。

前回のさんたつにて信之殿を取り上げたで詳しくは読んで参るが良い。

して、信之殿がなした快挙の話をいたそう。

信之殿は徳川家からもらった宝物を大層大切にして、宝物庫に昼夜常に見張り番をつけて江戸時代を通して守り抜いたそうじゃ。

徳川家からもらったもの故に厳重すぎる警備をしておったと思われておったのじゃが、明治維新の後に箱の中を改めるとなんと……。

石田三成からの、信之殿へむけた書状が出て参ったのじゃ!!

ここには三成から真田家への細やかな心遣いが記されておって、これによって三成の誠実な人となりが現世へと伝わったのじゃ。

信之殿は従順な姿勢を示しておきながら徳川家の目を欺き、歴史を未来へと伝えることに成功したわけじゃな!

さすがは戦国随一の曲者・真田昌幸殿の嫡男である。

幸村こと信繁や昌幸殿のほうが注目を浴びがちであるが、信之殿も誠天晴れなる策略に長けた戦国武将と言えるであろう!

終いに

此度の戦国がたりは如何であったか!!

真田幸村とともに江戸時代の出版物の事情についても話して参ったわな。令和七年の大河どらま『べらぼう』の蔦屋重三郎が、様々な制約のもとで励んでおることがわかるであろう!

此度話した江戸時代の規制と民たちの奮闘も『べらぼう』で描かれるかもしれんでな、共に楽しんで参ろうではないか!

それでは此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

 

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)