サンチャゴ・デ・コンポステーラ(以下サンチャゴ)とは、聖ヤコブの墓があるスペイン北部の街で、キリスト教三大巡礼地のひとつ。サンチャゴ巡礼は、一般的にはフランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポー(以下サンジャン)という街から出発し、ゴールであるサンチャゴの大聖堂を目指す、約800㎞の道のりだ。このルートは「フランス人の道」と呼ばれており、道そのものが世界遺産に登録されている。
しかし私と夫は、フランスのルルドという街から1週間かけてサンジャンまで歩くことにした。だから他の巡礼者よりも1週間ぶん距離が長い。また、ゴールも少し遠くに設定した。サンチャゴからさらに4日歩いて、スペイン最西端のフィステーラ岬で巡礼を終えることにしたのだ。
巡礼は私たちの旅の締めくくりだった。私たちの旅は半年間で、すでにメキシコ、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンを巡っている。この巡礼が終わったら、私たちの旅は終わる。
そもそも、旅に出たのは夫の希望だった。夫は結婚する何年も前から、私と旅をしたがっていたが、私はあまり乗り気じゃなかった。もともと心配性だし出不精だし、長いこと精神科に通院しているくらいメンタルも不安定だ。もしも地球の反対側で重いうつ状態になったらどうしよう、と不安だった。それでも夫の夢を叶えたくて、旅についていくことにした。
旅の初日、飛行機の乗り換えのためにロスで1泊したのだが、不安が爆発して空港で泣いてしまった。そのくらい旅に対して逃げ腰だった私だが、いざメキシコに着くと、毎日が刺激的で楽しかった。知らない街は見るものすべてが物珍しくて飽きないし、言葉を覚えていくのも楽しい。心配はどこへやら、私はすぐに旅になじみ、自主的に旅を楽しむようになった。
すると今度は、帰国するのが憂鬱になった。帰国後は、とりあえずはワンシーズンだけそれまで働いていた山小屋に戻るが、その後のことはなにも決まっていない。そろそろ山小屋を卒業して就職しなければ。また、旅に出るときに住民票も荷物も夫の実家に置いてきたので、住む家も探さなければいけない。
どこに住むかも、どんな仕事をするかも未定。それを自由だと喜べる人もいるだろうが、私は不安でたまらなかったし、家探しと仕事探しが億劫で仕方なかった。できることなら、このままずっと旅をしていたいくらいだ。
ルルドからサンジャンまではまだ「フランス人の道」が始まっていないので、巡礼者はほとんどいない。巡礼宿(フランスではジット、スペインではアルベルゲという)も、ほぼ貸し切りだった。
初日は20㎞くらい歩いたのだが、旅をしていてもこんなに歩くことはないので、途中から足の裏が痛くてたまらなかった。ジットについて靴を脱ぐと、足がバターロールのように腫れている。これがあと一カ月も続くなんて信じられない。1週間かけてサンジャンに到着したとき、足はもうボロボロだった。
サンジャンは「フランス人の道」が始まる街なので、世界中から集まった巡礼者でにぎわっていた。石畳の小さな街には、巡礼者向けの安宿とおみやげ物屋さんが並び、巡礼者の目印であるホタテ貝の貝殻(巡礼者はこれをバックパックにくくりつける)や杖などがたくさん売られている。街中のいたるところに、ホタテ貝のついたバックパックを背負っている人がいた。私たちはこの街に2泊して巡礼の準備を整えた。
翌日の早朝、いよいよ「フランス人の道」を歩きはじめる。初日はピレネー山脈を越えるのだが、思ったほどハードな道のりではなくて安心した。山を越えて森を抜けると小さな集落があり、大きな合宿所のようなアルベルゲがあった。中は巡礼者でごった返している。それまでは夫と二人だけで歩いていたけれど、多くの巡礼者を目の当たりにして、いよいよ本格的に巡礼が始まったことを実感した。
巡礼者の中には朝がゆっくりなタイプもいるけれど、私たちは早朝に起きて、まだ薄暗い中を朝食も食べずに出発する。そして次の町に到着したあたりで、バルでクロワッサンとコーヒーの朝食をとる。田舎のバルは都会のそれとは違い、商店やカフェも兼ねていて、朝から営業しているお店が多いのだ(ものすごく田舎だと、駄菓子屋感覚で子供が集まっていたりもする)。
午前中はほぼ歩行に費やす。私と夫はふざけながら歩くときもあったが、たいていは無言で歩いた。巡礼中は考えごとをする時間が嫌というほどあった。
巡礼路は、山や森などの土の道も通るし、アスファルトで舗装された道も通る。小さな田舎町も、交通量の多い大都市も通る。風が渡る一面の麦畑、明け方の牧場でひとかたまりになって眠る羊の群れ、ステンドグラスが美しい教会、誰も手入れしていないと思われるのにワイルドに咲き誇る野ばら。いろいろな景色に出会った。季節は春で、暑すぎず寒すぎず、陽の光がやわらかだった。
昼頃にはもう20~25㎞ほど歩いていて、その日の目的地に到着している。私たちは早々にアルベルゲにチェックインし、シャワーを浴びて、街を散歩した。観光地なら観光をするし、その土地の名物(タコやチーズやチョコレート)を買って食べたり、絵葉書を書いてそれぞれの両親に送ったりもする。
ランチは、バルでビールを飲むこともあれば、スーパーで食材を買ってきて簡単な自炊をすることもある。といっても、パンにハムやチーズを挟んだり、野菜を切ってサラダにするくらいだ。毎日のようにスーパーで買い物をしていると、種なしと種ありのオリーブを見分けられるようになったり、スペイン語で書かれた「今だけ増量中!」が分かるようになったりした。
夕食もたいていは自炊で済ませた。夜は9時にはベッドに入り、文庫本を数ページ読むともう寝落ちしてしまう。ほとんどのアルベルゲにはWi-Fiがあったが、面倒でつながなかった。巡礼中はほとんどネットを見ていない。
アルベルゲの寝室は、広いスペースに何台もの二段ベッドが並んでいる。仕切りも特にない。私と夫で同じベッドの上下を使うことが多かったが、たまに年配の巡礼者から「下段をゆずってほしい」と頼まれ、私と夫がそれぞれ上段を使うこともあった。最初は知らない外国人が下段に寝ていると思うとなかなか寝返りを打てなかったが、慣れてくるとまったく気にならなくなった。他人のいびきも特に気にならない。旅に出てわかったのだが、私は気が弱いわりに繊細ではないようだ。
しばらくすると、よく顔を合わせる巡礼者たちと会話をするようになった。巡礼者同士は、すれ違うと「オラ!」「ブエン・カミーノ!」と声を挨拶をする。ブエン(Buen)はスペイン語でgood、カミーノ(Camino)は道という意味だが、巡礼そのものを指すこともある。つまり「ブエン・カミーノ!」は「よい巡礼を!」という意味だ。
私も夫も日本語以外は話せないが、単語を並べただけの英語とスペイン語でも、意外とコミュニケーションは成立する。挨拶がきっかけで、そのまま次の街まで一緒に歩くことが多かった。また、何度も顔を合わせる人とは、アルベルゲで一緒にご飯を作って食べたり、バルに飲みに行ったりもした。
料理人の翔太くん、韓国人の陽気なお母さんと大学生の娘、韓国人のギャル三人組、サンタさんにそっくりなおじさん、アルベルゲで料理を振る舞ってくれたジャンレノ似のおじさん、リヤカーを引いて巡礼をしているオランダ人のおじさん、バービー人形をお供に巡礼をしているアメリカの青年、カナダ人のミシェルさんと孫のビンセント、俳優のようにかっこいいロシア人のおじいさん。書ききれないほどたくさんの人に出会った。
たくさんの人に出会ったし、夫とも常に一緒にいたが、歩いている間は自分自身と対話することが多かった。
とにかく毎日たくさん歩く。歩き続ける。そうしていると、靴底だけじゃなく、自分自身が消しゴムのように擦り減っていく気がした。それは決して悪い感覚ではなく、むしろ爽快だった。歩いているうちに余計なものをすべて削ぎ落して、ゴールに着く頃には自分の本質だけが残っていればいい。人目を気にする気持ちや人と比べる気持ち、劣等感もぜんぶ、巡礼路に置いてこられたらいい。歩くたびに、ネガティブな感情が削ぎ落されていくような感覚があった。
しかし、ネガティブな感情は削ぎ落しても削ぎ落しても新たに生まれる。こんなにも美しい景色の中を歩いているのに、私の頭の中は将来の不安でいっぱいだった。
山小屋を辞めたとして、私は就職できるだろうか。山小屋以外なにも続かなかった私に、できる仕事なんてあるんだろうか。
このときはまだ、物書きになるとは思っていなかった。憧れてはいたが、自分には無理だとはなから諦めていたのだ。だけど、歩いている間は妄想が捗る。私は山小屋エッセイをwebメディアに連載する妄想をし、「小屋ガール通信」というタイトルまで考えた(この妄想は巡礼から4年後に叶う)。
サンチャゴが近づくにつれて、寂しさと憂鬱が募っていった。巡礼が終わってしまうのが寂しい。この日々が、もっとずっと続けばいいのに。一歩一歩、噛みしめるように、終りを受け入れるように歩いていった。
巡礼を始めて43日目の朝8時頃、サンチャゴの大聖堂(カテドラル)に到着した。カテドラルは工事中らしく、一部が覆われていた。
夫と抱き合って喜ぶことも、涙を流すこともなかった。いつものように穏やかな口調で「やっと着いたね」と言い合う。
すると、通りすがりの日本人観光客のグループに「もしかして歩いてきたんですか?」と声をかけられた。
「そうです」
「すごい! 何日かかったんですか?」
「43日です」
「すごーい! おめでとうございます!」
そう言われてはじめて、「人から祝福されるようなことを成し遂げたんだ」と思った。
そうこうしているうちに顔なじみの巡礼者たちが続々と到着し、お互いにゴールを労い合う。巡礼証明書を受け取りに巡礼事務所へ行くと、ここでも多くの巡礼者に再会できた。
アルベルゲに荷物を置いたあと、大聖堂で行われるミサに行った。ミサの最後、天井から吊るされた大香炉がブランコのように大きく揺らされる。昔の巡礼者は今のように毎日シャワーを浴びられたわけじゃないからサンチャゴに着いたときには異臭を放っていて、その臭気をかき消すために大香炉が使われたらしい。
サンチャゴで1日休んだ後、私たちはさらに4日歩いて、スペイン最西端のフィステーラへ向かった。サンチャゴ~フィステーラ間にもアルベルゲはあるのだが、巡礼者は少ない。顔なじみがいなくなったことで、巡礼がより自分の心と向き合う時間になった。
歩きながら、それまでの人生を思い出していた。
私は人生を順調に歩み続けることができなかった。中学は途中で不登校になってしまったし、心を病んで働けずにいた期間もある。そうやって立ち止まってしまったことを、ずっと恥ずかしいと思っていた。
だけど、たとえば私が100歳まで生きたなら、100年のうちのわずか数年立ち止まっていたことなんて、とても些細なことかもしれない。この巡礼だって、おなかを壊して1日休むというアクシデントがあったけど、過ぎてしまえばまったくたいしたことではなかった。
そんなことを考えていたら、最後の街・フィステーラが見えてきた。
この時期、スペインの日の入りは22時頃。私たちは街のレストランで食事をとり、スーパーでビールを買って岬へ向かった。岬はごつごつとした岩場で、すでに数人の巡礼者がいる。大きな十字架が立っていて、巡礼者が置いていったものらしい靴やロザリオがぎっしりとかけられていた。
私たちはビールを飲みながら、大西洋に沈んでいく太陽を眺めた。辺りはすでに暗くて、海にオレンジ色の光が溶けていく。
ルルドからフィステーラまで1038㎞。48日間。
まだ巡礼が終わってしまう実感はないけれど、寂しさよりも、大きくて温かな気持ちが心に広がっていく。この旅で初めて、帰国後の人生もなんとかなる気がした。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)