自慢の手打ち十割そばと季節を感じる天ぷら
さっそく、お店の名物メニューの一つであるという、穴子天せいろ1700円を注文した。ランチでも人気のメニューだが、夜も楽しむことができる。
北海道、茨城、群馬など国内の厳選されたソバ粉を使用した十割そばは、香り高く、しっかりとした歯応えとなめらかな喉越しが特徴だ。そこに合わせるつゆは、あっさりとしていて、そばそのものの風味を引き立たせる絶妙な味わいになっている。
そして、このそばに添えられるのが新鮮なアナゴの天ぷらだ。毎朝、店主の粕谷育功(かすややすのり)さんが市場で吟味しているこだわりの素材を使用している。カリカリの衣に包まれた穴子は、ふわりとした食感。一口食べれば、穴子本来のしっとりとした上品な旨味が感じられる。
天ぷらは穴子だけではない。季節によってさまざまな野菜の天ぷらが楽しめるのも魅力の一つだ。取材した日は、タラの芽とふきのとうだったが、春はたけのこや新玉ねぎ、アスパラガスなども提供されるそうだ。使われている野菜は、魚同様、その日の朝に市場から仕入れたものが使われている。
粕谷さん曰く、「おそば自体は季節ごとに大きく変わることはないので、天ぷらを変えることによって旬のものを楽しめるようにしています」。そうすることで、一年を通してさまざまな味わいが楽しめるというわけだ。
酒匠こだわりのお酒と小料理
そばと天ぷらだけでなく、この店では多くのおつまみを揃えるなど、そば前も楽しめる。お酒が好きな人や、おそば以外にもっと食べたい人にも楽しんでもらえるようになっているのだ。
お酒は、唎酒師(ききさけし)と酒匠の資格を持つ粕谷さんが、実際に飲んでおいしいと感じたもの、そしてこの店の料理に合うと思ったものを20種類ほど厳選して提供している。
かつてそば屋は、そばを食べるだけでなく、お酒を楽しめる場所として庶民の生活に溶け込んでいた。
最近はいい日本酒を嗜むことが趣味だという若い人が増え、以前よりも客層が幅広くなっていることを粕谷さんは実感しているという。
「お客さんにきちんと説明ができるようになりたいと思い、お酒の勉強を始めましたが、とても奥深い世界だと感じています。酒は米・米麹・水、そばはソバ粉・水から作られているように、シンプルな素材から洗練された手法で仕上げるというところは、お酒とそばに通ずるところでもあります」と語る。
日本酒に合う小料理も数多く揃えている。いかの塩辛や玉子焼といったよくある定番のものから、桜えびと生のりかき揚やほたるいか酢みそ和えといった、新鮮な季節の海鮮や野菜を楽しめるものまで幅広い。
八代目店主が受け継ぐ、手打ちそばへの思い
『江戸蕎麦手打處 あさだ』の創業は、江戸時代の安政元年(1855)にまで遡り、粕谷さんは8代目になる。
明治時代に西洋の文化が日本に入ってきた際、製麺機で作られたそばがその珍しさから人気となり、手打ちの店が減少していったという。その後、バブル期に経済的ゆとりから人々がよりおいしいものを求め始めた時、手打ちそばを売りにする店が再び増えた。
しかし、『江戸蕎麦手打處 あさだ』はその波に乗り遅れてしまったという。そのタイミングでは、手打ちそばを売り出さなかったのだ。
粕谷さんが大学生の頃、『美味しんぼ』や『料理の鉄人』などのブームに後押しされ、お店を継ごうという気持ちも高まっていたという。
「父も十分頑張っていたけど、いま足りていないところを自分が補いたい」という思いを抱き、和食店で7年ほど経験を積んでから、30歳のときに八代目店主としてこの店に帰ってきた。そして、そのタイミングで「手打ち」に立ち返ることを決意する。また、当時は定番のメニューしかなかったため、おそばやお酒をさらに楽しんでもらえるようなメニューを増やしていった。
「昔は流行っていたけど廃れていってしまうものはある。そば屋でお酒を飲む楽しさが広がって、次の世代に伝わっていったらと思う。空腹を満たすためだけでなく、吟味された専門店ならではの料理を食べ、締めのそばをすする、という江戸の粋なたしなみを広い世代に楽しんでほしいです」
そう語る粕谷さんの思いが詰まった料理を、ぜひ味わってみてほしい。
取材・文・撮影=谷頭和希