烏森神社の参道で飲める、おいしい麦焼酎ハイボール
新橋駅から歩いてすぐ、烏森神社につづく雰囲気のいい小路に小川さんの行きつけはある。小さくもオープンな空気を放つ居酒屋『烏森百薬』。15時、カウンターやテラス席はすでに昼飲みをする人びとでにぎわっていた。
入店してさっそく、店長・山本さんが「あの、一昨日もいらしてましたよね?」と小川さんに声をかける。顔で覚えられているのは、お店側から見ても常連である証拠だ。
彼は東京にいるときは週1くらいのペースでここを訪れる。ランチでも飲み目的でも利用するためこれまで何度も顔を合わせてきたが、あらためて山本さんとご挨拶。
冷えたお酒をごくりと行きたいような夏日だ。席につき、まずはドリンクとお通しから。
『烏森百薬』で一番人気という「カラス森ハイボール」は、シェリー樽で5年貯蔵した麦焼酎をベースにしたここでしか飲めないハイボール。ウイスキーで作るよりもすっきりとしており、後味にシェリーが香る。
お通しは数量限定の「まぐろのバクダン」。豊洲の老舗マグロ問屋『石司』から仕入れたマグロを使用。醤油をかけて混ぜていただく。
無拠点生活がフットワークを軽くする
小川さんは新卒でLINE株式会社に入社し、5年半在籍して独立。現在はLINEを使った企業のマーケティング支援・DX支援をメインにサイト制作なども受けている。
IT・WEB業界で会社を飛び出して働くことを選んだ彼が、ホテル暮らしをはじめたきっかけは何なのか?
「住んでいた部屋の更新タイミングですかね。前職を辞めて独立したばかりだったんで……会社員ならローン組んで家買ったりもできたけど、家買わないなら逆に、買わない人にしかできない暮らしをしてみようかなって」
なんと極端な……しかし理にかなってもいる。実際、ホテル暮らしって不便はないのだろうか。
「ひとりなら快適ですよ。ただコロナ禍は特にホテルが安かったんですが、最近は高くなってきて普通に部屋を借りたほうが安い。でも今くらい移動してるならアリかな」
金銭的にお得なわけではない。仕事で移動が必要なわけでもない。とにかくいろんな場所に行きたいという気持ちが大きいのだという。
「仕事は場所を問わないから、誰かがどっか行きたいときに着いていくとか。今年は友人とニューヨークに行ったんですけど。向こうの18時が日本の朝8時だから、そこから6~7時間くらい働いて、昼前に起きて観光して……みたいな」
す、すごい! フルリモート生活をこれほど謳歌している人もめずらしいんじゃないか。
「今、高松の現場に行く仕事をしてるんですけど、東京に部屋を借りてたらその仕事を受けるのも躊躇してたかも」と話す小川さん。拠点をもたず飛び回っていることが、仕事におけるフットワークをも軽くしてくれているのだ。
お手頃・うまい・雰囲気よしのハイスペック居酒屋
ここでおいしい酒のアテがつぎつぎと届く。
「味噌ダレ餃子」は北海道の名店『餃子の宝永』の手包み餃子を仕入れて焼き、自家製味噌ダレ、ねぎをたっぷりとかけた一品。北海道の食材がふんだんに入った餡がうまい!
熊本県にある『禅閤』から仕入れた鶏の唐揚げ。からあげグランプリで3度も最高金賞を獲った実力者だ。もも肉と鶏皮を別で揚げてあり食感の違いがおもしろい。
「名店のセレクトショップ」をコンセプトにした『烏森百薬』では、このようにメニューの8割程度が全国各地にある名店からのお取り寄せで構成されている。
しかし小川さんが一番すき、と注文した牛タンたたきはお店の自家製メニュー。ひと晩かけて低温調理し、バターポン酢で味付けする。淡いピンク色がきれい。
「何を食べてもおいしくて値段が手頃。あと誰と来てもいい雰囲気。こういう感じの店って他になかなかない気がする」と小川さん。
たしかにどのメニューも注文を躊躇しない価格でありがたく、ほんとうに全部おいしい。「これを食べに行こう」よりも「お酒と一緒にいろいろ食べたい」で選ばれやすい居酒屋で、すべての料理が良心的な価格でうまいのは一番の魅力と言ってもいいだろう。
変化を求める人に「また行きたい」と思わせる店
同じ会社に長くいると、自分の成長曲線が平坦になっていく感じがして独立したという小川さん。まあ言っていることはわかるが、転職でなくよりきびしい独立の道を選んだのは……。
「自分で事業を始めたら、営業やディレクション、経理とか法務みたいなことまでやらなきゃいけない。そういうことを全部やってみたかったんです」
はっはー! こういう人がきっと世界を変えていくんだよな。たぶん座っている位置もあるが、小川さんから光が放たれ、自分のできることばかりしたがってしまう私自身がぴかぴかと照らし出されるようで少しはずかしい。
それで、ホテルもずっと同じ場所だと飽きてしまうらしく、1カ月ずっと東京にいるときも1週間ごとに滞在先を変えるそうだ。どこまでも変化を求めているぞ、この人は!
もちろん人が憧れるようなホテルに泊まってるわけじゃなく普通のビジネスホテルですよ、と各ホテルチェーンの特徴をつぎつぎに教えてくれておもしろい。満点の居酒屋トークだ。
「Googleマップのタイムラインっていう機能があって、自動で旅行記録みたいなものをつけてくれるんですよね。普段住んでる場所にいると認識された場合はそれがつかないんですけど、最近は高松が多いから東京にいるのが旅行とみなされはじめてる(笑)」
今後はキャンピングカー生活に移行するかも……と話す彼の、まだまだこれから変化していきそうな暮らしが気になる。
「でも東京にいると、また百薬行きたいなってなっちゃいますね。人気だから行きたいときに行けるかはわからないんですけど」
とにかく環境の変化を求める小川さんが、こうして同じ店に通いつづけていることでいっそう説得力がある行きつけだ。
おいしい時間を終え、また次の場所へ
「僕、ここのあんぱんがだいすきで……」との居酒屋らしからぬ発言により、急遽〆のデザートを発注。ついでに頼んだウーロン茶が、紅茶のような香りのちょっといつもとは違うぜいたくな飲み心地! うまい。
『烏森百薬』にあるデザートは、あんぱんとプリン。これがどちらもちょっとびっくりしてしまうほどおいしくて「えっ」と声に出してしまった。
いやあ、居酒屋のデザートメニューで想定されるものを軽々と超える……どころか、これ単体で食べに来たいおいしさ。
話を聞きつけた山本さんが「僕も試しにホテル暮らし1週間だけやってみようかな」と会話に加わってくれた。すっかり打ち解け、これからは双方公認の行きつけになるだろう。
楽しい居酒屋時間を終え「おいしいもん食べられたんで、またどっかのスペースで仕事します!」と、小川さんはさわやかに立ち去った。
見送ったあと烏森神社の参道にひとり佇むと、あらためて新橋駅のこんなに近くに、このような落ち着いた雰囲気の通りと店があったなんて、とうれしくなる。
変化を求め、たくさんの場所でいろんなものを見てきた人が通いつづける『烏森百薬』。居酒屋が好きならきっと満足できる、そして「また行きたい」と思わされるだろう。
私もまた小川さんの人生のつづきを聞きに訪れたい。
取材・文・撮影=サトーカンナ