不思議な食感のもちもちブール

江戸川橋にある地蔵取り商店街は、仕事の都合もあって、頻繁に行き来していた。高齢化などで寂れてゆく商店街が多い中、地蔵通りは元気な店が多くて人の往来も多く、歩いているだけでなんだかウキウキした気分になるものだった。

そんな地蔵通りもコロナ禍の影響で、人通りは激減した。もともと製本工場が多く集まるエリアで飲食店もたくさんあったのだがあちこちで閉店が続き、歩きながら、なんだか寂しい気持ちになったものだ。

しっとりもちもちの生地がクセになるもちもちブール140円。
しっとりもちもちの生地がクセになるもちもちブール140円。

そんな地蔵通りでも、変わらず元気に営業していたのが『ナカノヤ』だ。商店街の景色に溶け込んだ、まさに町のパン屋さんなのだが、納豆トルティーヤや白玉粉を使ったもちもちブールなど攻めたパンをアピールしていて、なんだか頼もしい。店頭の看板を見てみると、アタマが3ケタの電話番号が書かれていて、古い店だということが分かる。こういう店が元気だと、なんだかうれしくなる。

納豆トルティーヤ175円の中身は納豆にハムとチーズ、レタスと玉子。これが絶妙なハーモニー!
納豆トルティーヤ175円の中身は納豆にハムとチーズ、レタスと玉子。これが絶妙なハーモニー!

友人についていった洋菓子店で

『ナカノヤ』はもともと、現店主・小坂保さんの父がやっていた履物屋さんだった。父は戦後、堀切や船橋で商売をした後、江戸川橋に移ってきた。

看板の電話番号で年季が分かる。
看板の電話番号で年季が分かる。

江戸川橋は大日本印刷株式会社や、出版取次大手の株式会社トーハンが近いことから、製本工場が多くあった。すぐ近くの神楽坂がお屋敷町なら、こちらは庶民の下町。地蔵通り商店街には精肉店や鮮魚店に青果店、そのほか生活に必要なものを売る店がズラリと並び、多くの人でにぎわっていた。また、働く人の街でもあったため、定食屋なども数多くあった。

店主の小坂保さん。元高校球児。
店主の小坂保さん。元高校球児。

履物屋だった「中野屋」(当時)をベーカリーにしたのが、小坂さんだ。高校時代は野球に打ち込んでいて、強豪大学のセレクションにも合格したのだが、「さすがにプロでめし食うのは無理」と判断。友人が西荻窪のフランス料理・洋菓子販売の『こけし屋』で働くというので、それにくっついていって、そのまま自分も働くことになったのだという。調理に興味はあったのだが、なんとも「たまたま」な感じで、それまでとはまったく違う道を歩み始めたのだ。

製造は小坂さんが1人でやっている。
製造は小坂さんが1人でやっている。

そして、『こけし屋』で洋菓子の作り方を学んだ小坂さんは、江戸川橋の履物屋を改装して店を始めることにする。当然、ケーキや菓子をメインにするつもりだったのだが、店の改装に入っていた業者から、「これからはパンをやらないとダメだよ」と言われてしまった。当時、1970年代後半ぐらいから、対面販売ではなくセルフ式のベーカリーが出始め、人気となっていたのだ。さまざまな店舗を手掛けている業者の言葉は説得力がある。考え直した小坂さんはベーカリーに1ヶ月、働きに出て技術を学び、『ナカノヤ』は洋菓子とパンの店としてオープンした。1978年のことだった。

人気商品のプリンパン160円。
人気商品のプリンパン160円。

その頃はまだコンビニもなく商店街もにぎわっていて、『ナカノヤ』はすぐに人気店となった。途中、ケーキをやめてパンと焼き菓子だけにするなど、いろいろ変化はあったが、45年間『ナカノヤ』は地蔵通り商店街で頑張ってきたのだ。

中身のプリンは深谷にある田中農場の卵を使用。コクがあって贅沢な味わいだ。
中身のプリンは深谷にある田中農場の卵を使用。コクがあって贅沢な味わいだ。

コロナがきっかけで新商品

パンのラインナップはサンド類や菓子パンなどオーソドックスなものが多いが、その中でも珍しいものがある。白玉粉を使ったもちもちブールがそれだ。名前通りにもっちりした生地はしっとりしていてほのかな甘味もあり、クセになるおいしさだ。実はこの商品、六本木のベーカリー『ラトリエ デュ パン』で働く小坂さんの息子、賢一郎さんの提案で生まれたのだ。

実はこれが生まれたのは、コロナ禍がきっかけ。店が一時休業となって時間のあった賢一郎さんが、自分が作っている白玉粉入りのパンを「やってみたら」とすすめてくれたのだ。実際に作ってみたら、これがなかなかの評判に。今では焼きカレーパンやきんぴらごぼうなど、いろいろなバリエーションを展開している。

もちろん定番も充実。ハムタマコッペ220円は田中農場の卵使用で濃厚、かつこのボリューム。
もちろん定番も充実。ハムタマコッペ220円は田中農場の卵使用で濃厚、かつこのボリューム。

そして、その賢一郎さんは近い将来、江戸川橋でベーカリーをやりたいと言ってくれているそうなのだ。「その時は私は引退ですね」と小坂さんは言っていたが、その顔はなんだかうれしそうだった。

コロナ禍で閉めた店は多いとはいえ、江戸川橋近辺は新しいマンションがたくさん作られていて、明らかに住民の数は増えている。子育て世帯も多く、近くの小学校は学年で4クラスもあるそうだ。地蔵通り商店街は変わっていくが、そこにはやはり人が集う。『ナカノヤ』のこれからも、ちょっと楽しみだったりするのだ。

住所:東京都文京区関口1-2-8/営業時間:7:00~19:00(日曜は早じまいのときあり)/定休日:月/アクセス:地下鉄有楽町線江戸川橋駅から徒歩2分

取材・撮影・文=本橋隆司