私は専門学校在学中から作家を目指して新人賞に応募していたが、箸にも棒にもかからず、卒業後は北アルプスの山小屋で働くフリーターになった。
フリーターになってからもしばらくは小説を書いていたが、25歳のとき、心が折れてまったく書けなくなった。かと言って就職するのは怖いし、山小屋の仕事も面白くなってきたところだ。私はそのままずるずると山小屋スタッフを続け(最終的に10年続けた)、途中で山小屋で出会った人と結婚した。
ふたたび文章を書きはじめたのは、書かなくなってから5年後。夫と長旅をしたことがきっかけだ。私は旅で感じたことを書き留めておきたくて、毎日ブログに長文を綴るようになった。旅行中に書ききれなかったぶんは、帰国後に書いた。
5年ぶりに文章を書いて、「やっぱり私は書くことが好きだ」と再認識した。旅のことだけじゃなく、山小屋のことも書きたい。いつかどこかの媒体に、山小屋エッセイを連載できたらいいな。タイトルは『小屋ガール通信』にしよう。
そんな妄想をしつつも数年は勇気が出なくて行動できず、2018年、一念発起してライターに転身。ライターデビューから半年後、あるwebメディアが主催するコンテストで受賞し、連載権を勝ち取った。そして、念願の『小屋ガール通信』を連載することになった。
夢が叶った私は、当然ながらこの連載に打ち込んだ。週刊連載なので〆切は毎週あるが、まったく苦痛じゃない。毎回がむしゃらに原稿を書き、できた記事は一刻も早く読者に読んでほしかった。書くことが楽しくてたまらない。
連載開始から半年後には書籍化が決まり、私は連載を続けながら、書籍化に当たっての改稿作業をした。目が回るような日々だったが、夢中だった。そして、『小屋ガール通信』は2019年6月に『山小屋ガールの癒されない日々』として出版された。
書籍が発売されてすぐ、webメディアの担当編集さんから連載終了を告げられた。書籍が出たことで区切りがついたし、「ここが引き際」と判断されたのだろう。正直、まだ連載を続けたかったから悔しかったけれど、編集部が決めたことなら仕方がない。
そう納得したものの、『小屋ガール通信』を失った私は抜け殻になってしまった。
この1年間、毎週書きつづけた『小屋ガール通信』をもう書かなくていい。じゃあ私は、何を書けばいいんだろう? 10年間働いた山小屋に匹敵するほど書きたいテーマに、この先出会えるのだろうか?
ありがたいことにライターとしての仕事はコンスタントにある。けれど、なんだか前ほど書くことに身が入らない。このときの私は、わかりやすく燃え尽き症候群に陥っていた。
そんなとき、『さんたつby散歩の達人』の編集者である中村さんから「うちで連載をしませんか?」と声をかけていただいた。当時、『さんたつby散歩の達人』はオープン前のメディアで、秋のオープンに向けて準備をしているところだった。
町田駅のお花屋さんの前で待ち合わせた中村さんは、カジュアルな服装の小柄な女性だった。あとから知ったが、歳は私より一回りほど下だ。彼女は、私がnoteに「方向音痴だ」と書いたのを見つけて声をかけてくれたそうだ。
初夏のカフェで、中村さんは企画書を差し出した。
「どうしたら方向音痴が治るのかを専門家の先生に教えてもらって実践し、方向音痴を克服する企画です」
どうやらエッセイではなく、インタビューありルポルタージュありの連載らしい。
それを聞いて不安になった。当時の私はエッセイの仕事が大半で、インタビューは経験が少なかったのだ。得意じゃない分野で、ちゃんと面白いものを書けるだろうか?
また、テーマが「方向音痴」であることも不安要素だった。方向音痴の克服って、テーマがニッチすぎやしないか?
しかし、企画書を読む限り短期連載のようだ。短期連載なら他にもやったことがあるので、引き受けることにした。
その夏、さっそくロケを行った。池袋と曳舟で、地図を見ながら目的地を目指すロケだ。
ロケでは、カメラを携えた中村さんと共に街を歩いた。歩きながら雑談し、何かを見つけるたびに「あれ見てください!」「これ、なんでしょうね?」と言い合う。ランチやお茶をするのとは違う、散歩ならではの楽しさがあった。
そうして準備を進め、秋には『さんたつby散歩の達人』がオープン。同時に、吉玉サキの連載『Googleマップを使っても迷子になってしまうあなたへ』が始まった。実際に始めてみると、当初の予定よりも長い連載になりそうだ。
新しい連載は、ロケも、原稿を書くのも楽しい。読者からの反応もわりといいし、中村さんとの関係も好調だ。
だけど、どうしても前の連載ほどのめり込めない。
山小屋エッセイを連載することは長年の夢だったから、叶えている最中は心に火が点っていた。しかし、その火が消えてから始まったこの連載で、私は新しい火を点せずにいる。だって、方向音痴は山小屋と違って与えられたテーマだ。別に、方向音痴について書くのが夢だったわけじゃない。
たとえるなら、前の連載は「自分が惚れて付き合った元彼」で、新しい連載は「相手から告白されたからなんとなく付き合ってみた今彼」。いい人で好きなんだけど、燃えるような恋にはならない。
前の連載と今の連載を比べては、そんな自分に罪悪感を抱いた。
その年は、札幌にある私の実家で年越しをした。
年明け、夫に撮影してもらって札幌でロケをした。その後、夫は先に東京へ帰り、私はしばらく実家でのんびり仕事をするつもりだった。
しかし、どうにも元気が出ない。何があったわけでもないのに涙が止まらないし、言葉が脳内でつるつる滑ってまったく文章が書けないのだ。夏からの燃え尽き症候群を無視しつづけたせいだろうか、気づけばうつ状態になっていた。
私はそのとき受けていた仕事をなんとか納品し、しばらく実家で療養することにした。
中村さんに、しばらく連載を休みたい旨をメールする。すると、私の体調を気遣う温かい言葉と、私の回復と帰りを待ってくれる旨の返信が来た。
しばらくすると世の中はコロナ禍に突入。どっちにしろ身動きが取れなくなり、結果的にそこまで罪悪感を抱かずに療養に専念できた。
そんなとき、メールで「会議で方向音痴連載の書籍化が決まりました!」と知らされた。
驚いたし、もちろん嬉しい。だけど正直に言えば、不安のほうが大きかった。
書籍に必要な原稿はまだ半分も揃っていない。ちゃんと東京に戻って連載を再開できるのか?
それに、山小屋の本なら山に興味のある人が買うだろうけど、方向音痴の本をわざわざ買う人がいるのだろうか? ひどい方向音痴の私だって、この連載がなければ克服しようなんて思わなかったのに。
一冊目の評判がよかっただけに、二冊目でコケるのが怖い。うれしさと不安が入り混じり、複雑な気持ちだった。
結局、半年ほど療養して7月に東京へ戻った。
そこからはギアを入れて連載に打ち込んだ。インタビューやロケをタイトなスケジュールでこなしていく。もちろんこの連載以外の仕事もしているから、そこそこ忙しい。それまではエッセイ中心のライターだったが、数をこなすうちにインタビューにも自信がついてきた。
そうして迎えた12月、いよいよ谷中で最後のロケを行った。
短期連載だと思って始めたこの連載も、気づけば開始から1年以上が経っている。中村さんと歩く冬も二度目だ。
八百屋や総菜屋、レトロな看板など、目についたものについて話しながら谷中の街を歩く。寒空の下、ほっぺたを赤くして2時間半ほど散歩し、最後は日暮里駅の前で大きなセロリを抱えて写真を撮った(なぜセロリを抱えているかは記事を読んでください)。
中村さんはいつも、ロケの最後を「いいお散歩でした」という言葉で締める。
「いいお散歩でした」
何度も耳にしたこの言葉も、今日で最後か。
そう思うと、寂しさがじんわりと胸に広がる。
最初はそこまでのめり込めなかったこの連載も、終わるとなればちゃんと寂しい。いつの間にかこの連載に愛着が生まれていたことに気づいた。
また、寂しさだけではなく安堵感や達成感もあった。方向音痴をある程度は克服できたこと。連載が打ち切りじゃなく、想定していたとおりのラストに着地できそうなこと。
私はちゃんと、やり切ったんだ。夢を叶えて燃え尽きても、体調を崩して療養しても、私は走り切った。
年が明け、連載は最終回を迎えた。その陰で、私は書籍化に向けての改稿作業に入った。
そうして5月には、交通新聞社から『方向音痴って、なおるんですか?』が発売された。
中村さんは『散歩の達人』本誌に異動になったから、今は一緒に仕事をしていない。
先月、方向音痴として新聞に取材を受けた。そのとき「吉玉さんが方向音痴克服の特訓をしている写真があれば提供してほしい」と言われ、久々に連載時の写真を見返した。
写真を見て「懐かしい」と感じた瞬間、胸の奥がギュッとなる。懐かしさと切なさは似ているから、私は思い出を取り出して眺めるたび、少しだけ泣きたくなるのだ。
この連載が、私の中で思い出になっていることを実感する。大人になってからの、夢を叶えてからの思い出。
ハッピーエンドのその先も、宝物は日毎に増えていく。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)