60年以上、神保町で働く人たちに活力を与え続けてきた洋食店
神保町交差点から白山通りを水道橋方面に進んで行くと1960年創業の『キッチン グラン』がある。数年ぶりにこの道を歩いたが、だいぶ店が入れ替わっている。今風のド派手な飲食店の看板が並ぶ中、『キッチン グラン』だけは時が止まっているかのようだ。ドアを開けるとともに、くくりつけてあったベルが「チリン、チリン」と軽妙な音を奏でる。
それと同時に「いらっしゃい」と声をかけてくれたのは、マスターの矢内あきおさんだ。挨拶のため名刺を取り出そうとしたら、「いいから座りなよ。もう今日はメンチカツしかないけど、いい?」。言われるままにカウンターに座ると……、あっという間にメンチカツが出てきてしまいそう。焦りつつもまずは店の歴史から伺った。
「1960年代、この辺りは木下3兄弟っていうのが有名でね、路地の入り口にある『キッチン グラン』を長男、その隣にあったラーメン屋の「さぶちゃん」が三男、さらに路地を少し奥に入ったところに次男がやってる定食屋の「近江や」って店があったの。でも2店舗は閉店しちゃって、残っているのはこの店だけなんだよ」とマスターが教えてくれた。
白山通りから入るこの路地は、3兄弟の名を取って“木下通り”とも呼ばれ、それぞれ味の良さで定評があったそうだ。ちなみに『キッチン グラン』の創業者(長男)も亡くなっており、現在はマスターがほとんどひとりで店を切り盛りする。
「オレが2代目だと思っている人も多いんだけど、違うの! 雇われマスターなんだから(笑)。オレの実家は神保町3丁目で叔父さんが居酒屋をやってたこともあって、飲食業は50年くらいやってるかな。「さぶちゃん」の店主の三郎さんは昔から世話になってる人で憧れていたから、あそこで修業してラーメン屋になろうと思ってたんだよ。三郎さんから『料理でメシを食っていくなら勉強してこい』っていろんなところへ丁稚奉公に出されたりね(笑)」。
そして、マスターはステーキ屋や中華料理、居酒屋などで働き、さまざまなスキルを身につけた。和・洋・中、ひと通りなんでも作れるという。
「そしたら、『キッチン グラン』の木下さん(創業者・木下3兄弟の長男)が体調を崩して2年くらい店を休んでたことがあって、そのとき三郎さんを通じて『店をやってみないか』と誘われた、と。ここで働き始めて15年くらいになるね」。初日にレシピを教えてもらい、それ以来マスターはこちらの厨房でこの店の味を求める人たちに料理を提供し続けている。
揚げたてジューシーな全長15cm、厚さ2cmほどの特大メンチカツ
『キッチン グラン』のメニューは創業からほとんど変わっていない。「いろんな店で働いてきたけど、先輩たちはみんな『オーソドックスなメニューしか必要ない』と言っていた。定番がいちばん。オレもそう思うね」とマスターはいう。健康上、食べられないという人はいるかもしれないが、どれも万人が嬉々として食べるラインナップだ。
さて、今日はメンチカツ830円以外は売れ切れてしまったということで、さっそく揚げたてをいただく。
マスターは衣がついたメンチカツを油に放り込み、その間に仕込んであった千切りキャベツとナポリタンを手際よく皿に盛る。「タネはハンバーグと同じで、豚6:牛4の合い挽き肉を使っています。あとね、ラード100%で揚げてるからうまいんだよね」とマスター。
自家製のデミグラスソースがかかったメンチカツを目の前に驚いた。で、でかい! それを従える山盛りキャベツは、頂上にポロシャツのワッペンみたいなキュウリを乗せていてフォトジェニック。その横で洋食界のスター・ナポリタンも負けじと山盛りになってポーズを決めている。まいったな〜、好きなものばかりだ。
やや粗めのパン粉をまとったメンチカツを箸で摘んだらジュワッと脂が滲み出てきた。あ、これ絶対うまいやつー! 粗めに刻んだ玉ねぎの甘みと、コショウやナツメグなどが利いた肉汁たっぷりのメンチカツにデミグラスソースをつけて口へ運ぶ。ああ、至福の時!
メンチカツと向き合うこと30分。最後にメンチカツの熱でシナシナになったキャベツにたっぷりとデミグラスソースをからませてフィニッシュ。筆者はこのシナシナキャベツが大好きだ。
今回は食べ損ねたがマスターによれば、「人気なのはハンバーグとしょうが焼きとメンチカツ」だそうなので、次はぜひチャレンジしたい。
人情派の料理人たちの「学生たちにお腹いっぱい食べさせてやりたい」思いが大盛りに
生まれも育ちも神保町のマスターは、この街の移り変わりを見つめてきた。「昔からこの土地にいた人はみんな人情派だったね。オレもずいぶん世話になったし、自分がしてもらったことを今の若い子たちにもしてあげたいと思う」。
こちらの料理がモリモリなのもそのせい? と尋ねてみると「神保町は学生街だから、『腹いっぱい食わせてあげたい』と思って、山盛りになっちゃう」と答えてくれた。通い続けて30年、40年という常連が多いこの店。常連さんの顔はだいたい覚えているという。「かといって、別に話し込むわけじゃないんだけどね(笑)」と笑う。それもこの地に住み続けるマスターの人情派らしいエピソードだ。
カウンター11席の店とはいえ、仕込みもひとりで行うためマスターは毎朝7時から23時まで店で働いている。話を聞いている途中も「もう60だからさぁ……」と弱気な発言がポツポツとつぶやかれているのが気になる。体を大事にして、筆者を含めジューシーなメンチカツやハンバーグ、生姜焼きに魅せられた客たちをどうか見捨てないで欲しい。そう願うばかりである。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢