創業は江戸末期。昭和2年築の建物でいまも営業する老舗うどん店
昔は「穀屋」といった。現在地より少し南、いまの飯能大通りのあたりで米や麦などの穀物を扱う商家を営んでいた。当時は、辺り一面が麦畑だったという。ただし、店主の細川博之さんは、そんな光景を見たわけではない。うどん店『古久や』として営業を始めたのは、江戸時代末期のことなのだから。
区画整理を理由に現在の場所に移転してきたのは昭和2年、西暦でいえば1927年のこと。以来、先々代から先代、そして6代目の博之さんへと引き継がれてきたうどんを、当時と変わらぬ建物で提供し続けている。
武蔵野うどんといえば、一般的に太くゴワッとした食感が特徴。しかし、『古久や』が重んじるのは、コシを残しつつもツルっとしたのど越し。通常の武蔵野うどんよりも幾分細く、色も白くみずみずしい。「うどんを製麺する際の層の重ね方に秘密がある」と細川さんは説明する。
コシが強くて腹にたまる。それでいてツルっとのど越しが良い武蔵野うどん
やはり、大半の客の目当ては定番の「肉つゆうどん」。珍しいのは、通常の水で締めたうどん以外に、釜揚げも選べる点。関東では、讃岐うどんがバンバン東京に進出してきた2000年代以降になじみとなった食べ方だが、『古久や』では先々代から提供されている。常連にとっては、親子数代に渡って口にしてきたなじみの食べ方だ。ツルっとしたうどんゆえに、茹で湯がいい具合で膜となり、おいしくいただけるのだ。「夏場でも、4割近くの方が注文されますね」と細川さん。
もちろん、ボリュームについても言及せねばなるまい。「並」といえども、優に300グラムを超える。通常のうどんでいえば3人前だ。「飯能は、林業で栄えた町。力仕事に従事されていた方が多かったので、しっかりお腹を満たしてもらう必要があったんです」。ツルっといただけるのも、忙しい労働者にとっては好都合だ。
また、こうした地域柄は、そば湯ならぬ、うどんを湯がいたお湯「釜湯」の提供にも表れている。力仕事とは、すなわち汗をかく仕事。釜湯で薄めたつけつゆを飲み干して、しっかり塩分を補給してもらうことが起源なのだとか。「ただ、うちのつけつゆは濃いので、その分、麺の塩分は少なめにしてバランスを取っているんですよ」。
見た目と食感は上品とは言え、やはり武蔵野うどん。その力強さに負けぬよう、確かにつけつゆは濃く、甘みもまた強い。鰹節と鯖節から取っただしに、肉厚な国産豚のバラ肉から脂のうまみもにじみ出し、具材の一つである干しシイタケも風味を与える。まさに力と力のせめぎ合う、これぞ武蔵野うどんのつゆだ。
「最近では、メディアを通して武蔵野うどんの名前も広がってきたのか、遠く関西からもうどん好きのお客様が訪れることもあります。ただ、驚かれるのはやはりつゆの濃さですね。あちらはだしの効いた透き通ったつゆですから、当然といえば当然ですが」。ちなみに、あまりにもつゆが濃いと感じた人は、釜湯で割りながら食べるのがお勧めだ。
受け継がれてきたものを引き継げるのは自分しかいないという責任感
さて、ここまで『古久や』のうどんについて理路整然と語ってくれた細川さんだが、実は厨房に立つまでには紆余曲折があった。理由の一つは高校生時代に出合い、虜になったサーフィン。もう一つは、家業を継ぐという決まったレールに乗った人生への反発。高校卒業後は理容専門学校を経て、本人曰く「趣味と実益を兼ねられるという都合のいい考え(笑)」で、湘南海岸に面した神奈川県の藤沢市で美容師として8年間働いたという。
「若さって怖いですね」と照れくさそうに笑う細川さん。肝心のサーフィンはというと「寝る間もないような忙しさで…、休日も月に2日とか。その分、接客も含めて多くのことを学ばせてもらいました」。
20代も半ばを過ぎ、受け継がれてきたものを引き継げるのは自分しかいないと気づいて以来、細川さんはこの場所でうどん一筋。飯能の街は変われども、『古久や』のうどんは変わらず。もちろん、サーフィンは週1日の休日だけの楽しみにして、日々訪れる客のためにうどんを打ち、茹で続けているのだ。
構成=フリート 取材・⽂・撮影=木村雄大