U字工事
栃木県立大田原高校商業化の同級生コンビ。2008年「M-1グランプリ」決勝に進出。17年漫才協会第28代真打に。栃木弁漫才でブレイクし、2020年に結成20周年を迎えた。
益子 卓郎
1978年6月16日生まれ。ボケ担当。町田で暮らしてた頃は、刺繍屋で「東北自動車道」と入れたTシャツを着用してライブに出演。
爆発を予感させる風呂場と、爆撃後を思わせるアパートと
——18歳の時、お二人一緒に上京を?
うちの親父が運転するライトエースに、薫と二人で乗って栃木から町田に来ました。
僕のアパートは、3万2000円の6畳1間。あまりのボロさに栃木から来た友達が「なんだここ、爆撃あったのかい?」って驚いてたな。しかも、近所で獣医学部の学生がウシガエル飼ってて、夜にぼぉーぼぉー鳴くの。東京なのに。
俺も6畳1間。親父と大学の生協で部屋決めたんですけど、親父が「家は一に日当たり、二に日当たり」にこだわって、いざ住んだら干からびそうにあーつくて、すぐさま5~6kgやせました。
ずっとパンツ一丁だったもんな。
窓開けると、柿の木があっからか蚊がぶんぶん入ってくんの。あと、壁になぜか救命ロープが飾ってあった。
卓郎んちは風呂場もおかしかった。真四角のコンクリの打ちっぱなしで。
ちちち、ぼぉんって点火するやつ。湯船に三角座りで入るんだけど、たまに何かが壊れて、ちちち、バーンッ! ってなんの。もうロープで逃げるしかねえぞっ!てとこに住んでました。
苗字が「ふ」と「ま」。出席番号も席もつねに緊密
——お二人がコンビを組んだきっかけは?
高校3年間商業科で同じクラスだったんですよ。苗字が「ふ」と「ま」だから出席番号も席も近くて。
いつも1個前とか2個前らへんの席にいたよな。
そうそう。コンビを組んだのは、最初に僕がラグビー部で先輩に漫才をやらされてたんすけど、教室でもやりたくなって、卓郎に「漫才一緒にやってくんないけー?」って誘ったのが始まりです。
こいつ、クラスメートに断られまくってて。一番最後に俺んとこ来たもんで。俺もお笑い好きだったし、こう見えて断らないタイプなんす。
それで一緒に漫才やるうち、意地でも東京に行こうぜってなって。でも進学以外では上京させてもらえないし、商業科だから浪人もできない。運良く日商検定2級と全商簿記1級を取ってたから、僕は一足先に推薦で桜美林大学に決まったんす。
俺はそのこと全然知らなくて、自分なりに他大を受ける準備を先生と進めてたっけ、薫が「卓郎も桜美林にしろ、いいから受けろ。一緒の大学行くべ」って。薫の後追いで俺も推薦で受けたら受かって……。つかコイツ、そーゆー自己中なとこ本当あるんすよ! 俺は頭悪かったから、桜美林は多分ギリギリ、危なかったんだぞ。
そういえば、北関東簿記検定3級っていうマニアックな検定があるんすけど、卓郎、落ちてたもんな。
クラスでたった一人、俺だけ落ちて。あの時は体調悪くなりました。悔しいから、野球部の同級生とテストで負けた方が頭を丸坊主っていう条件で、点数対決したら、まんまと負け。以来、俺の長い坊主人生が始まりました。
エスニックな仲間が出来た町工場
——高校、大学、そして町田ではアルバイトもご一緒だったとか?
俺が、新聞広告で『鈴木製作所。初心者でもできます』っていうのを見つけて、連絡してみたら「今来れる?」って。行ったら「今から入れる?」。面接の数分後には機械回してて、しまいに「今日、残業できる?」って。どんだけこの工場、上からあおられてんだって(笑)。
僕も1カ月遅れで、その工場の面接行ったんです。したら、「益子さんの友達? 合格です!」。わずかな時間で、卓郎、どんだけ信用積んでんだ? って。
工場には、出稼ぎのスリランカ人やフィリピンの子がいて、みんな仲良くて楽しかったな。はみーど、ほわーど、さらっど、でぃーん、らむじん、いのけ……。
全員、覚えてるわ。卓郎は外国人と仲良くなるのが得意で、何かあると「マシーコサン」って相談に来る。卓郎がそれを〝通訳”して社長に伝える役。
俺、東京の人より外国人の方がしゃべれたからね。どこか自分と同じ匂いがして。
休みの日にアパートに招かれて、からーいカレーとかご馳走になったな。マトンのラー油づけみたいなの、あとでお尻が痛くなるやつ(笑)。
町田の忠生で本場のエスニック。食後は、「マシーコサン、紅茶飲みマスカー」って、高さ3mくらいのとこからどぼどぼどぼってあま〜いミルクティ淹れてくれたっぺな。
ダイジョブ、頭痛もお祈りで治せマス
外国人はみんなすごい働くんすよ。
社長が「益子ちゃん、あいつら頑張ってっからカレーとってやれ」って言うんで、そば屋のカレーを出前したら、「マシーコサン、お祈りしてないのは、食べられマセン。社長サンに言えない。マシーコ食べて」って。俺と薫で全力で食べて、腹がはちきれそうになりました。
決まった時間にお祈りするとか、日曜日はお祈り済みの(ハラール)食材を湘南台に買い出しに行くとか、バイト先で知ったもんな。
みんな本当いいヤツで、俺が風邪で「頭いてー」って言ってたら、スリランカ人が「薬アルヨ」って。部屋に行ったら、こめかみに謎の薬をぐりぐり塗られて「目ツブッテ」って。薄目開けたら、俺にお祈りしてた。「これでダイジョブ」って(笑)。
治ったのか?
う……ん。
そう、その工場で、ソフトボールチーム作ったんすよ。社長が、「外国人にもユニフォーム着せるぞ。体デカいから相手チームびびるぞ」って。でもみんな野球したことないから、こ~んな高い投球に思いっきしバット振るし、目の前から顔にボール投げてくるんで、いつもボロ負け。
社長も元社会人野球選手なんすよ。体が大きくて、高級国産車乗ってて、目つき鋭くて、金のネックレスつけてて、いかにも町工場の社長なんだけど。
工場の休憩中も、バットがさりげなく置いてあって、ちょっと素振りすると、社長が「ん? もっかいやってみろ」、「違うな」、「こう振れ」って。「よし、少し良くなった」。始業ベルが鳴っても、「仕事はいいから振ってろ」って。東京来て、最初に打ち込んだのが素振りとゴロを拾う練習でした。その社長が、町田は草野球も面白いぞって、スパイクから何から全部揃えて買ってくれて。
草野球の強敵は、町田市役所チーム
元甲子園球児とか元大学野球選手だらけの「ファンタジー」って強いチームが町田にあって、そこに二人で入ったんです。強豪は、町田市役所チーム。ここもすんげえ強い。「市役所だけには負けられねーぞ」ってみんな闘志燃やしてて。ある日、社長が「市役所の試合観に行くぞ」って言うんでついてったら、「サイン、メモしろ」って……。
盗んでんじゃねーか(笑)。
僕、すごい野球下手で常にビビってましたから。送りバント失敗すると、練習後に焼肉『いくどん』で延々飲みながら怒られるんで、とにかく僕の前に、ランナー出んな! と念じてました。
——その頃、お笑いの活動は?
オーディションあっから行ってみようって色々行くんだけど、ぜんぜん受かんなくて。高校の時、一回だけ吉本の渋谷の公園通り劇場に出たんですよ。30組くらいいたよな。
そこで、審査員全員が、僕らに丸を挙げてくれたんすよ。それでテレ朝の番組に出て、素人の高校生だし「おもしれーおもしれー」って優しくされて勘違いしたんだな。(上京後も)余裕で行けっぺと思ってたら落ちまくりでした。
——その後、浅草キッドとの出会いが?
そうです。「浅草お兄さん会」というところで、浅草キッドさんがネタを見てくれるっていうのを雑誌で見つけて。
俺ら、浅草キッドさんがすごい好きだったんすよ。
で、ネタ見せしたらキッドさんから「栃木弁をもっと出したほうがいい」ってアドバイスもらって。そこからオーディション受かるようになって。
それまでは、訛りで笑いとるとか、違うだろって思ってたけど。俺たち二人とも浅草キッドさんを尊敬してたんで、素直に栃木弁でやってみようって。
町田で夢追う二人の熱烈サポーター
——ネタはどこで作ってたんですか?
薫が自転車で俺んち来て、ネタが出来ると薫んちのそばの神社で練習。
そこは近くに境川があって、川の音があるからデカい声を出せるんです。
時々お巡りさんに「賽銭泥棒か?」って怪しまれたり、たむろするヤンキーにビビりながら、命がけで練習しました。けど俺ら、お笑いやってるって、バイト先ではしばらく言ってなかったんですよ。
でも、オーディション行くために、毎回一緒に休みとってたら怪しいから、そろそろ話そうかって。ある日、社長に「じつは僕らお笑いやってまして」って言ったら、「はっ? 嘘だろ!?」って。
社長、夢追う人が大好きなんすよ。すぐに、「ライブもオーディションもどんどん行ってくれ!」ってなりました。
けど、町田から都心に行くと結構交通費かかっちゃうんすよ。
したら時々、社長が「ロマンスカー取っといたぞ、座れっから」って。ロマンスカー乗るのが夢だったんで、ふはぁ〜って言いながら座ってな。
社長の奥さんも、誕生日にパスネットくれたしよ。
時給も後半は1000円以上くれてたっぺよ。俺も薫も仕送りなしで、奨学金とバイトだけで生活できてましたから。
あの頃は電車代浮かすために、鶴川駅まで原付で行って、そこから小田急線乗って新宿に行くのが常だったんすけど、ある台風の日、ライブが終わって鶴川からカッパ着て原付で帰ったら、カバンの中が水浸しで携帯がぶっこわれた時は、「お笑い、やめっかな」って思いました。
そこでかよ……!
「“社員”の福田と益子がなぜいないんだ!」
でも、お笑いの仕事でバイトを休むようになると、今度は取引先から、「なんであの二人がいないんだ、おかしいだろ!」って怒られて。完全に正社員と思われてんすよ。部品も製造から納品まで任されてましたから。僕の担当はMDプレイヤー。
俺は、ビデオカメラや携帯の枠。携帯は小さいから難しいんすよ。
スクレーパーで削ったりしてな。
けど、仕事のあとのビールは旨かったなー。
出荷が終わったら、粉塵まみれの作業着でみんなでビール飲むんすよ。ホッと安心した状態で。すると1時間後くらいに取引先から電話が来て、「20個足りませんけど!」。慌てて「追加20個だー!」って。ようやく出来たら、「ハサミをどっかの箱に入れちゃいマシタ……」って。「なあああ! よおし、全部の箱開けて確認だ!」って、平日はだいたいそんな感じでした。
金曜夜は、社長が行きつけの「焼き鳥天国」って店行って、そのあとスナック。社長の実家は青森なんで、「益子ちゃん、橋幸夫のねぶた節、歌ってくれよ」って言うんで、あれは自力で覚えました。
夜中までべんろべろで歌ってな。
でも、俺は真面目だから、どんなに飲んでも土曜も朝8時に出勤するんすよ。すると社長のお母さんが、「今日もやってんのかい」って1万円くれたりして。「なんだこれええええ! いちまんだぞぉ!」って。薫は、夕方4時によろよろ来て、1時間働いて1万もらって帰る。
僕、結構ちゃっかりしてるとこあるんで(笑)。
漫才のネタ合わせは境川。デートは戦車道路とリス園
——性格は全然違うお二人ですが、奥様との出会いはともに町田とか?
奥さんが、社長とよく行くスナックに、たまたま遊びに来ていて出会いました。町田リス園とか、デートで行ったっけなー。
僕は当時の事務所の社長が通ってる陶芸教室が町田にあって、アパートから近かったんで、体験しに行ったら、そこで働いていたのが奥さん。デートは戦車道路。春は桜がホントきれいなんすよ。
——そんな思い出もいっぱいの町田を出ようと思ったのはいつ?
お笑いの仕事が、工場の仕事よりも増えてきた2009年頃ですね。
そろそろかなって。工場と草野球に命かけてる風になってたけど。一応、お笑いやるためにやってたもんですから。
居心地よくて、工場の社員に誘われた時、それもいいかって一瞬(笑)。
ホントみんなに世話になってな。
M-1グランプリで初めて準決勝に出た時も、新宿ルミネから出てきたら、社長から電話あって、「今見てたぞ。良かったじゃねぇか」って。社長、社員連れて、会場に来てたんすよ。「お前らに言うと緊張するから黙って来た」って。チケット全然取れないから、ヤフオクでやっと人数分落札したって。いくら使ったんだべ。
その工場、去年、潰れたんすよ。俺の思い出の地がなくなって寂しいっす……。みんな、元気ですかー!
けど、やっぱり町田ってどっか栃木と似てんだよな。東京なのに田舎扱いされて。つい調子合わせて、「神奈川県町田市ですから」とか言っちゃってな。僕らも福島行けば、「栃木は東北ですから」って言ってんもんな。
何だおめ、ケンカ売ってんのか?
は? え? 何キレてんだ?
よく聞け。栃木はな、全国魅力度ランク1位なんだぞ。
下から数えて、だけどな!
ごめんね、ごめんね~!!
店舗詳細
取材・文=さくらいよしえ 撮影=加藤昌人
※『散歩の達人』2020年12月号より加筆・再構成
福田 薫
1978年5月12日生まれ。ツッコミ担当。高校時代は部員5人のラグビー部に所属。「本気の体育会系は町田の草野球で学びました」。