ここもじき腐海に沈む……
『風の谷のナウシカ』が好きだ。寂れた町を散歩して空き家を見つけると、「ここもじき腐海に沈む」とつぶやいて立ち去ってしまうくらい好きだ。
と、今ひとつ好きさ加減が伝わらない書き出しだが、とにかく原作まんがもアニメ映画もどちらも好きで、アニメには出てこない「森の人」も好きだが、やっぱりなんといっても「王蟲(オーム)」だ。サンダーバード2号を少し思わせる緑色の巨体の、それ自体が山であるかのような圧倒的なご神体感。アニメの『風の谷のナウシカ』は、王蟲の映画と言ってもちょっとしか過言ではない。
散歩中に王蟲を見つけることは結構ある。
だいぶ前のことだが、ある夕暮れに、東京都あきる野市の里山保全地域、横沢入のひらけた谷を歩いていて、息を呑んだ。目の前の小高い雑木の山が、王蟲に見える!
暗くなると、山のシルエットが強調され、山の気配が強くなって、ますます王蟲だ。王蟲は成長すると体長80mになるというが、ちょうどそんなスケールで、谷に向かってサワサワと伸びた雑木の枝葉が、王蟲の触手に見えてくる。
「なんて立派な王蟲」と、ナウシカの声になるしかない。
横沢入のこの山はその後、形が変わってしまい、今は王蟲に見えない。でも大丈夫。ほかにも王蟲はいる。東京郊外を夜散歩していると、雑木の山が王蟲のようにこんもりしていることは、わりとある。
南生田二丁目に「風の谷」があった
ある夜、川崎市多摩区南生田二丁目と麻生区東百合丘一丁目の区境あたりの谷を散歩していたら、おお、これまたなんて立派な王蟲!
しかも、あろうことか、王蟲のすぐ前にある小さな公園の名は「南生田二丁目風の谷公園」だ!
公園内にはちゃんと風車(の形の遊具)もある。もしかして、意図的なのか? だとしたら素晴らしい見立てだし、偶然だとしても、それはそれで素晴らしい。
怒った王蟲の大集団!
たくさんの王蟲をまとめて見ることもある。ある深夜、南生田二丁目風の谷公園に近い丘の上から、都心方面の夜景を眺めていて、ハッと気づいた。
王蟲だ! 怒った王蟲の大集団だ!
王蟲には青い目がたくさんついているが、怒ると目が赤く発光する。本気で怒らせると、赤い光だらけの大群になって襲ってくる。
夜の都心方面を、多摩丘陵あたりから少し離れて見ると、無数の航空障害灯の赤い光が帯になって連なって、まるで腐海から襲来する王蟲の大群のようなのだ。航空障害灯とは、飛行機にその存在を知らせるために、高さ60m以上の建物に設置するライトのこと。都心部では高いビルがとても増えたから、いつの間にか赤色航空障害灯だらけになっていたのだ。
とくに、冬などの空気のよく澄んだ日曜ド深夜がすごい。
日曜はオフィスで働く人が少なく、また、夜が深まるとタワーのライトアップをはじめいろんな灯りが減っていくが、航空障害灯はずっと点いているので、ただでさえ目立つ赤い光が、日曜ド深夜にはますます目立って、まさに風の谷へ向かう王蟲の大群のように赤い光の帯となり、「ババにしっかりつかまっておいで。こうなってはもうだれも止められないんじゃ」状態になる。
あそこに王蟲、こちらにも王蟲
こうなったらもう、なんでも王蟲に見えてくる。深夜、小田急線登戸駅から向ヶ丘遊園駅方面へ歩いていたら、高架下に赤い光がたくさんある!
駐輪場の自転車を固定するラックのひとつひとつに、赤いランプがついていて、駐輪するとランプが消えるのだが、深夜は自転車がほとんどないから、ランプが点きまくって、怒れる王蟲になるのだ。
もう15年前のことだが、JR武蔵五日市駅から金比羅山に登る闇歩きツアーをやったときのこと。
山上から下界を見下ろすと、五日市街道の信号が15基くらい連続して青になっている。しばらくすると、真ん中あたりから赤信号がうわーっと広がりだした。それを見た参加者のひとりが、「王蟲が怒った」とつぶやいた。こういうふうに信号が連鎖的に変わるさまは、夜の山の上でときどき見る。
金比羅山からの夜景は腐海の底のよう
そのようすを動画に収めてみようと思い、ひとりで夜の金比羅山に登ってみた。
ところが、信号が連鎖的に変わらない! プログラムが変わってしまったのだ。とはいえ、五日市街道の街路灯の明るい光が連なりながらうねるさまは光る川のようで、手前の暗い木立との対比が素晴らしく、この金比羅山公衆トイレ前からの夜景色はなかなかのものだ。
たぶん初日の出を拝むために東側の木々が間引かれていて、そのまばらな黒木のスーッとまっすぐなシルエットが、下から生えているのにまるで上から落ちてきているように感じられて、腐海の底にサーッと落ちる砂柱を思い出した。
樹上でなにか小動物が騒いでいる。キツネリスのテトに違いない。
ついでにもうひとつ。
一昨年、静岡県掛川市の小笠池周辺で闇歩きツアーをやったのだが、その下見で訪れた六枚屏風岩が見事だった。崖と崖にギチギチに挟まれた、人ひとりがやっと通れる隙間が、屏風みたいに折れながら続いている。
どんどんその隙間を歩くと結局どこにも抜けられないが、風の谷から酸の湖(うみ)に抜ける、崖が迫った細道にそっくりなのだった。
ではまた。闇の中で逢いましょう。
写真・文=中野 純