タブレット純 Tablet Jun

1974年8月31日生まれ、相模原市育ち。2002年、「和田弘とマヒナスターズ」に芸名・田渕純としてボーカルで加入したことをきっかけに、ネオ昭和歌謡、サブカル系のイベントに出演。ムード歌謡漫談という新ジャンルで、独特な存在感を光らせる。テレビやラジオ、寄席、雑誌・新聞の執筆など幅広く活躍。2024年12月10日に初の自伝『ムクの祈り』(リトルモア社)が発売。

「忠実屋」に行くと見せかけ、町田や八王子のレコード店へ

「歩くと思い出が降りてきますね」。通学路でもあったという中野商店街。残念ながら廃業した店が多い。
「歩くと思い出が降りてきますね」。通学路でもあったという中野商店街。残念ながら廃業した店が多い。

—— 相模原市名誉観光親善大使だそうですね。任命の経緯は?

タブレット 相模原市さんから事務所にお話が来たと思います。ただ、当時の市長さんたちは僕のことを知らなかったみたいで(笑)、知らないのに依頼されるんだあって思いました。驚きましたが、地元の者として名誉なことだと思ってます。

——津久井にはおいくつまで?

タブレット 20歳の頃には一人暮らしを始めたので、住んでいたのは19歳まででしょうか。

(ここでオムライス登場)

タブレット わ、懐かしい……。(スプーンでひと口食べる)ああ、おいしい。

「大きいオムライスなんです~」。
「大きいオムライスなんです~」。
『中華レストラン はつみ』のオムライスはスープ付きで850円。
『中華レストラン はつみ』のオムライスはスープ付きで850円。

—— こちら(中華レストランはつみ)で召し上がったことは?

タブレット 出前でよく。小6の頃、ガリガリに痩せてたんですけど「そのわりにはよく食うな」って親に言われたのが、ちょうどこのオムライスを完食した時で。すごく大きくて食べられないだろうと言われてたのに食べちゃった。で、おなかがポコッと膨れたのを妙に覚えています。

—— どんなお子さんでしたか。

タブレット 極端に目立たない人間で。しゃべらないし運動が異常なほど苦手だったので、性格はどんどん暗くなってました。一人遊びが好きでしたね。

—— たとえば?

タブレット 小学5、6年生のときにはAMラジオを録音して、好きな歌を1つのテープにまとめてました。その過程で古い歌謡曲が好きになって。日曜日の朝、地元唯一のスーパーだった「忠実屋」(現・ダイエー)に行くと言って出かけて、実はバスで橋本駅に出て八王子や町田の中古レコード屋に。買えなくても見に行くだけで楽しかった。

でも、親に怪しまれて上の兄に尾行されまして。八王子で兄が姿を現して、ついに尻尾をつかんだぞ! と言わんばかりに「何やってんだ」って(笑)。

—— 昭和歌謡で惹(ひ)かれたのは?

タブレット 後に所属することになる「和田弘とマヒナスターズ」ですね。究極に好きなものを見つけた! って感じで、小学校の卒業アルバムでは「好きな芸能人」の欄に「マヒナスターズ」と書きました。担任の先生すら知りませんでしたけど(笑)。

ただ、中学生になると思春期で自分の趣味を恥じるようになりまして。音楽との友情はどんどん深まっていく一方、子供でこんなのを聴いてうっとりするってどういうことなんだ、という思いが強まって。もう自分を変態だと思っていましたね(笑)。でも好きでやめられない。

—— 複雑な心境でしたね。

タブレット ええ、でも、グループサウンズ研究家の先生と文通したことで同じような中学生がほかにもいると知って、自分だけじゃないんだって思えるようになりました。

—— そんな少年時代の津久井はどんな街でしたか。

タブレット 商店街があって、子供がそれなりにいて、わりとありふれた新興住宅地で、正直、子供の頃は地元が好きという気持ちはなかったです。ムード歌謡に惹かれた理由のひとつには東京への憧れもあったので。

ムード歌謡のレコードジャケットによくネオンが写っていて、特にネオンサインが好きでした。中1のときは、百科事典の「ネオンサイン」の項目にある夜の銀座の写真の切り抜きと、相撲も好きで一番ファンだった麒麟児の写真を下敷きにはさんでました。それに気づいた隣の席の女子がすごい気持ち悪がって「橋本(本名)君が下敷きに大仏と夜景の写真を入れてるんですけど」って先生に(笑)。相撲取りが大仏に見えたみたいです。

—— 高校時代はどうでしたか。

タブレット 相変わらず暗くていじられキャラで……。原付しか持ってないのにツーリングチームに入れられて、富士山に向かって案の定エンストして取り残される、とか、不良でもないのにリーゼントにさせられて、好きでもない人に告白させられて振られる、みたいな(笑)。

AMラジオを聴いて始めた1人遊びの物まねも、その頃は学校の先生に応用してました。1人の友達にやるとウケて、それがじわじわ広まって、不良の人たちも休み時間に押し寄せて、あれやれこれやれって。

—— 面白がられたんですね。

タブレット そうかもしれない。不良の人にとっては、自分はほど遠いものだったからそういう格好をさせたかったのかな。すごい嫌だったんだけど(笑)。その人は生きがいのようにめちゃめちゃ楽しそうでしたけど。

まあ、深刻ないじめにならなかったのは、結局どこかで「笑い」に変えて、自分自身も笑っちゃう性格だったのがよかったのかもしれません。全く抵抗しないので、流されて流されて、今に至るみたいな。でもやっぱり大きかったのは好きなものがはっきりとあったから。だから学校は地獄でもいいと(笑)。そのリーゼントにさせた人とは何年か前に2人で飲みました。

—— え!? 楽しめました?

タブレット まあ、そうですね。意外とその人は堅実な不動産屋になってたんですけどね(笑)。

ただ、大人になって思うのは、同窓会とかに行ってみると、いじめてた人って全くその認識がなかったんだってことがわかるんですよね。いじめって実はそういうものじゃないかと。子供時代のいじめなんて、したほうはただの遊びの一環で、覚えてないぐらいのことなんです。だから、悩んでいる人やつらい思いをしている人もいると思うんですけど、そんなことで命を投げてしまうのはすごくもったいないって言いたいんですよね。

四十数年醸成されて、見事に昭和が残った街

—— 今の街はどう見えますか。

タブレット 変わらないからどこにいても子供の頃を思い出せます。橋本駅なんて平屋だったのに京王線が通って信じられないほど変わりました。

実はここにも橋本から京王相模原線の延伸計画(相模城山駅、相模中野駅の設置)がありうちは引っ越して来たのですが、結局駅はできなくて(1980年代に頓挫)。大きく変わらず四十数年醸成されて、見事に昭和が残った。それが今は大好きな感じになって、ありがたいと思っています。

—— 地元を出てからもこの街をぶらぶら歩くことはありますか。

タブレット ちょいちょい1人で、道でお酒を飲みながら歩きますね。結構酔っぱらいながら(笑)、感慨にふけったり。

—— どういう気持ちになる?

タブレット わりと楽しかったことしか思い出さないんですよね。いじめられたけど楽しいことも多かった。特に小学校5、6年が楽しいピークでした。もう見るものすべてが興味の塊みたいな感じで。デコトラを見ただけでも追っかけたりして(笑)。

—— えっ、タブレットさんがデコトラ!?

タブレット 確か道路交通法で規制されるまでは、夜、すごいピカピカしたトラックが結構走っていたんですけど、それと出合うためだけに夜道を歩いたりして(笑)。

ラジオの深夜放送も、こんな世界があるんだと夢のように楽しかった。授業中も次の土日に何をするかで頭がいっぱい。日曜なんか、寝てらんない! って朝6時くらいに起きて、まず相撲の星取表つけて(笑)。

—— うらやましいほど充実していますね。今回、このページタイトルは勝手に“エレジー(哀歌)”というイメージでいたのですが、エレジーではなさそうですね。

タブレット まあでも、エレジーかもしれないです。興味を持ったものがわりとエレジーをもとにしているというか、根底のペーソスに惹かれていたし。

—— あ、よく、ご当地ソングに“〇〇エレジー”とかってありますよね。ご当地ソングを作って! なんて依頼はないのですか。

タブレット つい最近、愛知県幸田町の音頭を作ってという依頼がありましたが、音頭を作るのは苦手なので同じ事務所のアコーディオン漫談の方に作ってもらって僕が歌いました(「幸田おいでん音頭」)。ご当地のムード歌謡を作る機会があればいいなとはずっと思っていて。ま、勝手に、「モナムール沼袋」とかって曲を作ったりしてますけど(笑)。

—— 故郷の曲はいかがですか。

タブレット ああ、実は、神奈川新聞のコラムで書いたことがありますが、街の畳屋さん(『高城畳店』)のご主人がセミプロのミュージシャンで、昔(1983年)、「津久井湖慕情」という曲を作ってレコード化されたんです。僕も地元の歌は作ったりもしていますがまだ発表してなくて……、「哀愁の相模線」とか(笑)。

—— お! やはり“哀”なんですね。

タブレット そうですね。地元の歌を作るとしたら、やっぱりわび・さびと言いますか……。

—— いつか相模原や津久井のエレジーが聴きたいです。

タブレット そうですね。故郷に恩返しみたいなことができたらいいなとは思うんですけれど。

里帰りに駆けつけたお父さん(前列左)と、『はつみ食堂』の方々、ファンのご近所さんも大集合。
里帰りに駆けつけたお父さん(前列左)と、『はつみ食堂』の方々、ファンのご近所さんも大集合。
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タブレット純さんが幼い頃から慣れ親しんだ味『中華レストラン はつみ』

2024年で創業50周年!
2024年で創業50周年!

アクセス:JR・私鉄橋本駅北口から神奈川中央交通バス「三ヶ木」行き26分の「六本松」下車2分。
住所:神奈川県相模原市緑区中野1772
営業時間:11:00~14:30・17:00~20:30。水・木休。
☎:042-784-2127

【番外編】撮影オフショットルポ

さて、インタビューを終えて撮影タイム。『中華レストラン はつみ』を後にして、タブレット純さんと津久井の街を歩きます。

タブレット ♪めぐる峰、みどりさやかに~、波きらら、相模のみずも~、胸あつく、希望はもえて~、かがやかに陽は今のぼる、誇れわれらの中野小学校~。

撮影用に持参してもらったギタレレを弾きながら、母校である中野小学校の校歌を歌うタブレットさん。近くに山も見えるのどかな住宅地に、美声が響きます。

よく通った商店の建物がいくつも残るバス通りにて。
よく通った商店の建物がいくつも残るバス通りにて。

タブレット 光景は昔と変わってないですね。小学時代はこの道が帰り道でした。登校班では班長もやりました。子供の数は多かったですね。僕の時代は第2次ベビーブームの頃だったので、全校生徒はたぶん860人以上いたと思います。1学年で5~6クラスはあって。……あ、このお店もすごく懐かしい。

そう言って見上げたのは、表通りに立つ『山本書店』。

タブレット 子供たちの拠点で、学校帰りによく行っていました。『ドラえもん』とかにも出てきそうな、ハタキを持って立ち読みを阻止するおばあさんがいたので、みんなで遠目から店を覗(のぞ)くんです。その姿が見当たらないと、「いねえ、いねえ、今日は立ち読み放題だ!」って(笑)。

歩くたびにどんどん思い出が沸いてくるのか、とつとつとですが饒舌になっていくタブレットさん。

「この道の上に、僕の通っていたそろばん塾があったんです」と言うので、表通りから脇に反れ、その上り坂を一緒に上ってみることにしました。

タブレット この坂道の上には、小6のときに仲の良かった友達のソメヤくんが住んでいてよくレコードを借りました。ソメヤくんのお母さんに「ラブユー東京」のレコードも借りたのですが、タイミングが悪くて実はまだ返していないという……(笑)。レコードのラベルに「ケイコ」ってお母さんの名前が書いてあるレコードが未だに手元にあるんです、はははは。昔はレコードに自分の名前を書く人が多くて、中古屋に行くとしょっちゅうそういうレコードを見つけましたよ。

辿り着いたのは奈良井児童遊園という小さな公園。隣接する自治会館でそろばん塾も開かれていたそうです。

タブレット この公園でも遊びましたね。そういえば慰霊碑みたいのがあって……、あ、変わってない。出征軍人の慰霊碑だったんだ。今初めて知った。懐かしい。

そう言ってタブレットさん、大きな山のようなコンクリートの遊具に近づくやいなや、よっこいせと上ってしまいました。“異常なほど運動が苦手”だとは思えぬ身軽さ。懐かしさのあまり童心にかえったのでしょうか。

タブレット こ、こわい……。当時でも怖かったことを思い出しました。

ぎこちなくなんとかしゃがみこんで、おしりをついて滑りました。

すると、そばで遊んでいた男の子がやって来て、ひょいとこの山に上りました。思わず声をかけるタブレットさん。

タブレット 怖くない?

「怖くない!」と元気いっぱい、立ったまま駆け降りる男の子。タブレットさんに近づき、抱えていたギタレレに気づいたかと思うと、「ギターだ! ねえ、ギター弾いて!」と大興奮。聞けば彼も中野小学校の1年生といいます。

タブレット 校歌歌える?

「うん、歌えるよ」と男の子。なんと2人で校歌の合唱が始まりました。男の子の物おじしない人懐っこさもすごいけれど、何十年経っても歌詞を忘れず歌えるなんて、タブレットさんはすこぶるすごい。1番を歌い終え、思わず、取材班一同拍手。

タブレット 50年生きてきて、校歌のありがたみを初めて知りました。こういうふうに通じ合えるんだ……。

「続きあるよ!」と興奮冷めやらぬ男の子。そばにいたお兄ちゃんの持つスマホでダウンロードした校歌の2番を聞かせてくれました。

「母校の子と校歌を歌えてうれしい♡」。
「母校の子と校歌を歌えてうれしい♡」。

タブレット うちも男3人兄弟だったので、なんだかんだで一緒に遊んでましたね。一番上の兄が昭和45年生まれ、次男が46年生まれ、で僕が49年生まれでちょっと離れていたので、上2人はしょっちゅうケンカしていましたが、僕はそういう輪にいないというか、男っぽくなかったというのもあるんでしょうけど、かわいがってもらっていたように思います。

再び表通りに出ると、タブレットさん、シャッターが降りて看板のない商店に目を向けます。知っている店なのでしょうか。

タブレット ここは通称、「ゲタヤ」と呼んでいた駄菓子屋でした。もともとは履物屋さんで店頭に下駄がばーっとぶら下がっていたんですけど、駄菓子も売っていました。ゲーム機が何台か置いてあって、そのうちの1台が、マリオブラザーズかと思ったら「マサオブラザーズ」で(笑)。マリオ&ルイージじゃなくて、マサオ&コージだったかな……。

細やかな記憶力に脱帽です。タブレットさんの思い出は街のそこここに今も息づいていることがよくわかりました。

そして、最後に立ち寄ったのは津久井湖。昭和40(1965)年に城山発電所建設の下池として誕生した「城山ダム」の人造湖です。その湖に架かる赤いアーチ橋・三井大橋は絵になる撮影スポットです。

津久井湖に架かる歩行者専用の三井そよかぜ橋。赤いアーチは三井大橋。「津久井湖は大切な水がめなんです」。
津久井湖に架かる歩行者専用の三井そよかぜ橋。赤いアーチは三井大橋。「津久井湖は大切な水がめなんです」。

タブレット 僕がいた頃はまだ三井大橋の隣のこの橋(歩行者専用の三井そよかぜ橋)はなかったですね。三井大橋は細いので歩くのは危険な橋で。実はこの湖は幽霊スポットでも有名だったんです(笑)。地元に住んでた頃はもう何百回と金縛りにあったかわからないし……。昔、雨が少なかった年の夏に、沈んだ街が出てきたこともありました。それもちょっと不気味ですよね。トンネルとか電柱とか出てきて……。

——名誉観光親善大使なのにそんな怖いことを言わないでください。街の情報発信もされているんですよね?

タブレット 正直、何もやっていなくて(笑)。でも、津久井っていろんな意味で面白いんじゃないかなと思っているんです。

県内でも有数の景勝地とされる雄大な津久井湖。

立ち去る前にあらためて目に焼き付けようとじっくり眺めていると、湖の対岸の緑茂る傾斜地に洋館風の豪邸を発見。あれは何だろうとざわつく取材班。

タブレット あ……、噂だとAVを撮影してるとか……。ろくな情報がなくてすみません(笑)。

撮影終了まで、タブレットさんらしいゆるくてゆかいなひとときなのでした。

取材・文=下里康子 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2024年11月号より(一部加筆)

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