1899年創業。今なおおいしさを追求し続ける江戸そばの老舗
JR新大久保駅の改札を出たらすぐ店が見え、入り口の隅にいるタヌキの置物が愛嬌たっぷりに誘ってきた。味がある木の看板にも歴史を感じるし、おいしいそばが食べられそうな予感。ああ、見ているだけでお腹が減る看板だなあ。
「『百人町 近江家』は、初代が浅草三筋町で修業をしたのち、1899年、麻布笄(こうがい)町(現:南青山)に創業。1916年に現在の場所に移転してきた」。店内にあったパンフレットにはこう書かれている。
ここは120年超の歴史があるそば店なのだ。現在4代目の永谷泰一さんに話を聞いた。
「うちは山手線の電車が着くとお客さんが一気にドドドと入ってきて、常連さまは我が家のようにゆったりと入ってくるんです。駅前なので、3代目のときまでは早い・安いをモットーにやってきたんですけども、私が代を継いでからはゆっくりお酒とおつまみから楽しむ方も増えました」。
永谷さんは、大学卒業後に北品川の名店『そば会席 立会川吉田家』で2年間修業。そば打ちや天ぷらの揚げ方などをみっちり習得してきたという。そして、 24歳のとき自分の店に戻った。
「『ファストフードの原点が蕎麦だ』と言って、天ぷらは揚げ置き、いかに早く提供するかに重きを置いていた父と、これからの時代は『吉田家』のように揚げたて、打ち立て、茹でたてで料理も楽しめる店にしなければ生き残れないと思っていた私は何度もぶつかりました」。
30歳で4代目を継ぎ、20年以上店を守っているのには、永谷さんの努力と強い信念があったのだろう。「そんなことないですよ。でも今よりもっとおいしいそばやうどんを作りたいと日々研究をしています。私はいわゆる職人気質なんでしょうけど、商売は下手なんですよねぇ」といって、照れ臭そうに笑う永谷さんだ。
現在は、『神田やぶそば』や『神田まつや』など江戸そばの名店が名を連ねる木鉢會に加入。「会合などでいい料理屋さんに連れて行っていただいたりして勉強させてもらって、こうするとこういうそばになるんだなってやっとわかってきたところ。ようやく50歳にしてスタートラインに立てたかなという感じです」と話す。
そば粉の割合やもりつゆのだしなど、うまいそばのために日々研究を重ねている
研究熱心な永谷さんは、ひとつひとつのこだわりがすごい。もりつゆは、カツオ節を削りだしてだしをとる。「今や希少になった枕崎産の近海カツオの本枯節で、さらに仕入れてから5年ぐらい寝かしたものを使っています。そのほか土佐節の本枯鯖節と宗田枯節も加えています。削りたてだとふわっと残るだしの香りがいいんですよ。挽きたてのコーヒーと一緒ですね」といってカラッカラに乾いた本枯節を、和太鼓のバチのようにカンカンと叩いてみせた。
ああ、高級な本枯節にそんなことをしては……! サービス精神旺盛な永谷さんだ。
続いて製麺所に案内してもらった。『百人町 近江家』では、国産そば粉8:国産小麦粉2の割合で合わせた二八そばだ。これを木鉢下と呼ばれる木桶に入れて寝かすのだという。
「直前で粉を割る(そば粉と小麦粉を合わせること)のをこだわりとしているところもありますけれど、うちは割って寝かして2日後ぐらいに使うんです。梅雨の時期でもこの木鉢下が湿気をほどよく調節してくれるし、虫よけにもなるんです」
収穫された時期はそば粉にもみずみずしくて粘りがあるので、2種類の割り粉(小麦粉)の配合を微妙に変えているのもこだわりだという。
ただの食いしん坊の筆者が理解するにはちょっと難しい話だが、美味の道は尊いということはわかった。
つるっとした喉越しのいいそばはそば湯までごちそう
メニューのなかから特天せいろ1980円を選んでみた。しかも、そばは大盛り。せっかくだから自慢のそばをめいっぱい楽しみたい。
天ぷらの衣は2種の小麦粉に卵、水を加えたもので、こだわりの油でカラッと揚げる。海老、きす、ナスなど野菜の盛り合わせだ。
まずは海老の天ぷらから取り掛かって手際よく残りの具材も揚げ、次はそばを茹でる。粉の品種、それを混ぜる割合、加水率などそばの配合はもちろんのこと、茹で時間もおいしさを大きく左右するという。
「うちは製麺機でそばを打っているけど、そばに合わせた茹で加減で手打ちの食感に近づけようとしています。修業先で手打ちも勉強させていただいたのでね」と永谷さん。
「だいたいそばを触った感じでどのくらい茹でればいいかわかります。しっかり火を通してやった方が、そばの味が引き出されるので1分ぐらいで上げるのを目指しているんですけど、その日の気候や湿度が多かったりするとまたちょっと違って……。麺の茹で時間はそばの出来でも変わるので、難しいですね。20年やっていても、うまくいかない理由が解明できないところがありますね」。
ムムム……。食べるのはあっという間なのに、聞けば聞くほどそばの道は険しそう。
まずはそばだけ食べてみる。喉越しがよくそばとつゆそれぞれの芳醇な香りに驚いた。喉がウォータースライダーみたいになっていて、そばがスルンとすべり落ちていくような心地よい感覚。あっ、おいしい。
本枯節のだしには再仕込み醤油などを加え、醤油の塩気とみりんなどの甘みがいいバランス。江戸前らしい濃いめのつゆだが、そばに少しつゆをつける食べ方を想定した味付けにしている。
そばをツルツルと食べ進め、カリッと軽い衣で素材の旨味を閉じ込めた天ぷらとのコンビは鉄板のうまさ。あっという間に完食した。食後には白濁したそば湯も堪能。ああ、口当たりがやさしくてそばのいい香りがする。ごちそうさまでした。
かつて『百人町 近江家』は駅そば感覚で来るお客様も多く、オーダーしてから提供までたった2分が待てない人もいたそうだが、今では店の外で席が空くのを待つ行列ができるようになった。いやいや、こんなにおいしいそばが食べられるなら30分でも待ちますよ。次は温かいそばを食べてみたいな。そのときももちろん大盛りで!
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢