「見て学び、手の感触で覚えた」老舗そば屋の息子の気概
カレーの街・神保町で、キーマカレーで勝負をしかけるそば屋『まれびと』。地下1階に続く階段を下りると、およそそば屋とは思えない洗練された空間が広がっており、店主が打つ本格そばと料理の数々をじっくり堪能することができる。
店主・大西拓見さんの実家は、長野県上田市にある老舗そば屋『手打百藝 おお西』。幼い頃の大西さんは父親がそばを打つ姿をまねて、手ぬぐいをそば生地に見立てて遊んでいたという。
「実は、そばの打ち方を父から教えてもらったことがなくて、父の背中をずっと見続けながら、そば打ちの経験を積んでいきました。母いわく、お弟子さんたちにはきっちり教えていたらしいんですが(笑)」。
実家を出て独立した後も店を手伝うことはあったが、その時はいつも、そば茹でを任されるだけだった。それが数年前、父親が入院することになって初めて、そばの打ち方を教えられたという。それもたった一度きりで、当然、父親のように旨いそばが打てるわけがない。
しばらくの間、主不在となる店を支えることになった息子は必死だった。父親が打ったそばの切れ端を手でさわったり、茹でる時にそばにふれた感触を都度確かめたりしながら、大西さんは父親のそばの出来を自分の手に覚えさせていった。
その後、父親は無事店に復帰。以来、大西さんはそば打ちに本腰を入れるようになった。「同じ材料を使って同じ条件下でそばを打っても、そばには打ち手の個性が出ます。だからこそ父は『教える』のではなく、あえて『見せる』ようにしていたのかもしれません。今思えば、自分でやり方を見つけて自らの力でやっていくことのおもしろさや、作り手には根気強さが必要なことを、父はぼくに伝えたかったのかなと思います」。
風味豊かな十割そばと深い甘みを感じる和のキーマカレー
早速、店頭の品書きを見て即決した、そば屋のキーマカレーを十割そばとセットで注文。大西さんが、「十割そばはやわらかくて、のど越しがツルッとしてるんですよ」と教えてくれた。それなら、水で締めたもりそばにしてみよう。
まずは十割そばから。ズズッというよりススッと口にすべり込んでいく感じ。確かにコシはやわらかめで、かなり食べやすい。「十割そばには、実家のそば屋と同じ信州のそば粉を使っています。毎日夜にそばを打って冷蔵庫で一晩寝かせるので、水と粉がなじみきって食べやすくなっていると思います」と大西さん。日々研究を重ねており、その風味と食感はまさに絶妙といえる。
そばつゆは関東のそれとは異なり、出汁が多めで塩気が強くないのでスッキリといただける。そばをつゆにしっかり浸して食すと、そばと出汁の風味が相まってとっても美味。
さらに見逃がせないのは、民芸品収集家でもある大西さんのさり気ないこだわり。木曽漆器のそば猪口や寄木細工の箸置きなど、食を彩る器や小物選びに大西さんのセンスが光っている。
さて、いよいよ待望のキーマカレー、いっただっきま~す。パクッとひと口めで「ん~!!」とうなるほどのおいしさに大興奮! 意外なことにまったく辛くなくて、お肉や野菜の甘みがギュッと詰まった濃厚な旨みが口いっぱいに広がる。このキーマカレーにもそばつゆがブレンドされており、味に奥行きが加わっている。
『まれびと』で使われる食材は、実家のそば屋と同じ店から仕入れているそうで、「料理は食材が命です。信頼できる仕入れ先を紹介してくれた両親には本当に感謝しています」と大西さん。このキーマカレー、神保町の名物カレーになること、まちがいなしだ。
日本茶×民芸品ギャラリーから本格手打ちそばの店へ
今や手打ちそばが人気の『まれびと』は、2012年に「まれびと Tea house & Gallery」として誕生した。オープン当時は、日本茶を供する茶屋に民芸品を展示したギャラリーを併設し、客人たちは民芸品を鑑賞した後、食事やお茶をいただくというスタイルだった。そのうち大西さんがつくる料理が評判を呼び、ついには食事がメインの店になった。
大西さんは日本茶アドバイザーの資格を取得しており、「まれびと Tea house & Gallery」時代から上野の老舗のお茶屋さんで茶葉を仕入れている。毎日、急須でていねいに日本茶を淹れて、食事とともに提供している。なので、『まれびと』の食事に付くドリンクは、日本茶なのだ。
「上野のお茶屋さんには仕入れに出向くたびに日本茶のことを教えていただいています。お茶の専門店の方もうちの常連さんなんですよ」と大西さん。『まれびと』に足を運ぶと、こうした造詣の深い人たちとご縁ができるかもしれない。
普段は夫婦で切り盛りしているが、奥様の出産を機に、2022年初夏からアルバイトの藤﨑拓真さんが加わった。「おそばにしてもお茶にしても、どれをとっても大西さんのこだわりが詰まっていているので、自分もいろんなものに興味が湧いてきました」と藤﨑さん。大西さんや『まれびと』に集う趣味人たちから刺激を受けて、藤﨑さんのように新たな世界観が広がるお客さんもきっといるだろう。
そもそも『まれびと』で手打ちそばを出すようになったのは、大西さんの奥様のひと言がきっかけだった。そばが苦手な彼女が実家の店の十割そばは「おいしい」と食べるそうで、大西さんは「そばが苦手な人でも十割そばなら食べやすいのでは」と気づいたという。加えて、大西さんが腰を据えてそば打ちに取り組むようになったこともあり、「十割そばをメニューに加えたらいいんじゃない?」と奥様から提案があったのだ。
「いい食材やおもしろい材料を手に入れて、それをお客様においしく食べていただけるようにすること。妻が『おいしい』と喜んで食べてくれるものを店で出すこと。それをいつも大切にしています」。『まれびと』の料理がどれもこれもおいしいのは、そんな大西さんの探究心があって、夫婦愛がちょこっと隠し味で効いているからかもしれない。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=コバヤシヒロミ