「仏教ブーム」の立役者
今回お話をお伺いするのは、さまざまな仏教関連イベントを主宰し続けている、住職の青江覚峰さん。寺社フェス「向源」や築地本願寺で開催された「他力本願でいこう!」という音楽イベントなど、仏教を身近にするムーブメントの大きな流れを作られた方です。
- 青江さん
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順番待ちの方がすごい列になったんですよね。当時、整列の責任者をしていたのが僕です。
- 青江さん
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一緒に立ち上げた僧侶の松本紹圭さんと、誰かいい人いないかねって話していたとき、「僕の友達に俳人がいます」と紹介されたのが木原くんでした。そこから20年近くやってますからね。
- 青江さん
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アメリカの大学院でMBAを取得して戻って来たあと、同じくオープンテラスを企画した松本さんをはじめたくさんのお坊さんと知り合って、仏教って面白いところがたくさんあるのに、PRが足りないねという話になったんです。そこで2003年に作ったのが「彼岸寺(ひがんじ)」というウェブサイトです。これをリアルなつながりにしていこうと始めたのが、さきほどの「他力本願でいこう!」や、神谷町・光明寺の「誰そ彼」などのお寺音楽イベントでした。さらに、不特定多数との関係だけでなく、定期的に顔を合わせるコミュニティを作っていこうと「神谷町オープンテラス」を始めました。でもこれって都会の大きいお寺だから成功したともいえます。そこで、スペースの限られたお寺でも可能なコンテンツとして考えたのが、「暗闇ごはん」という企画です。
食べることにも仏教の教えが
青江さん:「暗闇ごはん」では、アイマスクを着けた暗闇の状態で、料理を食べていただきながら、食事と仏教にまつわるお話をしています。例えば、「いただきます」って言葉、食前に言いますよね。いつ頃から使われているかご存知ですか?
- 青江さん
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そうなんです。昭和27年の1月頃、年度でいうと昭和26年度、全国で学校給食が始まった年からと言われています。そこから、「いただきます」と「ごちそうさまでした」という言葉を唱和するようになったと。意外と新しい言葉なんですね。
仏教には、それより古い食前の言葉があるんです。それが「四分律行事鈔(しぶんりつぎょうじしょう)。元はえらく長いお経で、その一部を抜粋したものです。曹洞宗では「五観 の偈(ごかんのげ)」、臨済宗では「五観文(ごかんもん)」と言ったり、宗派によって言い方や使われる漢字が変わったりします。これをお寺オンラインや暗闇ごはんで取り入れています。
青江さん:1行目は「目の前の食べ物がいったいどこからやってきたのかを想像してみましょう」ということ。2行目は「自分が食べ物を食べる資格があるのかどうか考えてみましょう」。そう言われるとドキッとしますよね。3行目は「もっともっとというむさぼりの心ではなく、慎しみ深い心でごはんを食べていきましょう」。4行目は「食べ物は自分の体を作る一部である。未来の自分自身であることを考えながら食べていきましょう」。5行目は一般向けに「生きるためのものであることを感じましょう」と意訳しました。
青江さん:例えばようかんだったら、土や気温などの自然の条件がないと小豆が育ちません。農家の人、小豆を職人の手に届けるトラックの運転手さん、トラックを作る人、道路を作る人……。食べ物に直接かかわる仕事だけでなく、それを可能にするエネルギーがないと、我々は食事をとることができないと気づかされます。そういうことを徹底的に広げていくと、だいたい一口5分くらいかかります。5行あるので、1つのものを食べ終わるまでに20〜30分。そのくらいゆっくり物事を噛み締めて食べることってなかなかありませんよね。こうして、自分自身と向き合うマインドフルネスな時間を体験していただいています。
暗闇ごはん=食べるマインドフルネス
青江さん:坐禅をヒントにしたストレス軽減法のマインドフルネスを提唱しているジョン・カバットジン氏と仕事を通じて友人になったのですが、彼に暗闇ごはんを体験してもらったとき「これは食べるマインドフルネスだね」と言っていました。彼がマインドフルネスの一環として行なっている「レーズンワークショップ」は、暗闇ごはんと同じことなんです。
例えばあなたがレーズンのことを知らないとしたら、どうやって食べますか? しわしわしてて変なものだな、でも甘そうなおいしそうなにおいだなと感じると、口の中につばが出てきます。口の中に入れてみると、いいにおいがしていたのに味がしないと気づく。意を決して噛むと、ぶどうの味や香りが味が爆発して渾然一体となったレーズンを楽しむことができる。こうやってひとつひとつ認識しながら食べていくのが「マインドフルネス・イーティング」です。
青江さん:通常我々はごはんを食べる時に、目で見て「にんじんだ」と認識し、口に入れて「にんじんの味がするな」と確認しますよね。でも暗闇で食べると、口の中に入れたらこういう香り、味、食感がした。じゃあこれはにんじんだ、という帰納法に近い形になるわけです。
これって、子供の時みんなやっていたことなんですよね。この白くてやわらかい甘いものはなんだろう? と思いながら食べて、「おかゆだよ」と大人に教わることで「これはおかゆなんだ」とインプットする経験を積んでいくわけです。大人になるとその知識だけでいけるようになりますが、暗闇の中では、その経験を積み重ねる行為をもう一度やる必要があるんです。
- 青江さん
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本当にバラバラなんですよ。「すごく緊張して何を食べているのかわからなかった」とおっしゃる一方で、隣の方は「すごくリラックスして味が濃く感じた」と真逆のことをおっしゃったり。自分自身に向き合うことになるので、何を感じるかはその人次第なんですね。初めて入るお店の料理について「サクサクした食感が心地いい」なんていう前情報があったりするとつい引っ張られてしまいますが、食感に意識が向く人、味に意識が向く人、もしくはお店の雰囲気に意識が向く人、いろいろあっていいと思うんですよね。そのようにゼロベースで食事を楽しむというのが、暗闇ごはんの特徴です。
青江さん:人間はオギャーと泣いて、おっぱいを吸うところから人生が始まります。そして最後には食べられなくなって、呼吸が止まって死んでいく。食べるということは、人間が生きていく中で、呼吸の次に長く行う能動的な行動なんです。まずそこを認識してほしいんです。それくらい身近で重要な行動なのに、当たり前すぎてその大切さになかなか気づけません。そうやって毎日口にする食べ物や飲み物と自分は別の存在ですが、体の中で吸収されて、次の日には自分の血や汗になります。つまり、食べ物は明日の自分の一部なんです。そう考えて食べると、食べ物に対する考え方も変わっていきますよね。人によっては「だからいいものを食べていく」となるかもしれないし、「感謝して食べましょう」と思うかもしれない。ただ、これが明日の自分なんだと思わずに食べてしまうのはもったいない。そこにまず気づいてほしいんです。
青江さん:面白いことに、「四分律行事鈔」を読むたびに、気になる点が変わるんです。2行目の「忖己徳行全缺多減(食べ物を受ける資格が自分にあるのかを問う)」を読んですごいなと思う日もあれば、 1行目の「計功多少量彼来処(食べ物が供されるまでの、人々の思いやいのちに目を向ける)」が響く日もあります。目の前の食べ物がどこからやってきたのかを想像すると、畑や農家の人から広がって、例えばお茶を初めて飲んだ人のことや、パンはイエス・キリストも食べていたんだなあとか、それ以降も2000年間世界中のどこかで誰かが常にパンを作っていた事実にも気づきます。僕はそういうことを気づかせてくれた仏教が面白いと思うんです。だからそれを他に人に伝えたい。これだけの話なんですね。
「部活」としてのお寺の活動
- 青江さん
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僕のやっていることは部活だと思っています。部活で頑張れば評価されるし、なにより面白い。でも本筋はなにかっていったら学業、つまりお坊さんでいえばお葬式や、お経をあげることなんですよね。ここをしっかりやることを前提にしたうえで、部活もやるという気持ちで取り組んでいます。
元々は寺を継ぎたくなくて、そのためには海外に行けばいいんだ、と思ってアメリカの大学院に行きました。その間に2001年のアメリカ同時多発テロが起きて、世の中がぐちゃぐちゃになったんですよね。消防士の人たちが決死の覚悟でビルに入っていき、医療従事者の人たちが最前線で働いているのを見た時に、社会に対して自分が何をするべきか、すごく考えました。そのときに自分ができることって、限られた献血と寄付以外になかったんです。自分の社会の中での役割はこの程度、というのをまざまざと見せられたんですよね。それで本当に嫌になって、なんで生きるんだろうってすごく思っていました。こんなに生きづらいなら、何もかも捨てて死んじゃおうという気持ちになったんです。
青江さん:1、2年で培ったマーケティングの知識や、そのベースとなっている英語、国語算数理科社会、そういうものも全部、気持ちの中で捨ててみました。そこで、最後までいっても捨てられないものは、自分が日本人であるというアイデンティティだと気づいたんです。日本人というものを僕はどれだけ知っているだろう、食わず嫌いじゃかっこ悪い、と思って日本に帰り、日本人の感覚の根底にありそうな仏教を学んでみようと思ったんですね。
「丁寧な暮らし」に疲れたときは
- 青江さん
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仏教の基本となっている「中道」思想は、「中の道」と書きます。お釈迦様は王子様として生まれて、お腹が空いたと言えば食べ物が出てきて、暑いと言えばあおいでもらえるような享楽的な世界にいたんですよね。それがまずいと考えて、いばらの茂みの中で寝るような苦しい修行をします。でもそれって、実は享楽的な生き方の針が反対側に倒れていっただけで、極端さの度合いでいえば享楽的な生活となんら変わらないんです。お釈迦様は最終的に、人間はその真ん中の中道を求めないといけないと考えていきます。
青江さん:「丁寧に生きましょう」というのは、ある種苦行側に針が倒れている状態なんですよね。僕自身、精進料理を食べ続けていたら「家系ラーメンも食べたいな」という気持ちになることもあります。世の中って「清水に魚棲まず」と言われるようにいいも悪いもあって、その中で生きて行かざるを得ないですよね。その真ん中がどういう道なのか、我々も日々それを探し続けて、両方のバランスを整えてあげる必要があるんです。
阿弥陀如来の「救いたい気持ち」
- 青江さん
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……マニアックな話します? 上がってください。こちらは浄土真宗の御本尊の阿弥陀さん。正面からは見えないんですけど、光背の軸の部分に菖蒲の葉がくるくる巻きついているんですよ。後ろにある光背は、東本願寺派では放射状になっていますが、本願寺派のお寺では舟形になっているんです。あと、阿弥陀さんって、よく見ると絶対前かがみになっているんですよ。
- 青江さん
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これは衆生を救いたいという思いがあふれた結果、前かがみになってるんです。お寺によってはこの角度が30度くらい傾いていることもあって「お宅の阿弥陀さんは相当前かがみですね! 救いたい気持ちが出てますねえ」なんて言ったりすることもあります。
- 青江さん
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一番右側には、仏教を日本に伝えた聖徳太子と、「七高僧(しちこうそう)」と呼ばれるお坊さんが掲げられています。大乗仏教の祖となったインドの龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)や、浄土真宗を作った親鸞(しんらん)上人、直接の師匠である法然(ほうねん)上人などですね。インドのお坊さん2人、中国のお坊さん3人、日本のお坊さん2人です。御本尊に向かって右側は親鸞上人の掛け軸。左側の蓮如(れんにょ)上人は、浄土真宗を大きくした方です。一番左は余間(よま)っていって、だいたい先代の住職の軸があったりしますが、何を置いてもいいところなんです。だから余間を見ると、お寺の違いが出ます。
- 青江さん
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よく作法を聞かれるんですけども、好きなようにお焼香していただければ大丈夫です。皇族にもマナーを教えていらっしゃったマキシム・ド・パリの遠藤明さんに、フレンチのテーブルマナーを教えていただいたことがあるんですが、お焼香の作法に通ずるところがあると思っています。肘をついて食べたり、くちゃくちゃ音を立てたりとか、人にそういう嫌な思いをさせない気遣いだけすればいいんですよ、と教えていただきました。お焼香も、それと一緒なんですよ。
青江さん:ちなみに、浄土真宗の東本願寺派は2回お焼香するのが正式で、本願寺派は1回が正式。でもそれより大事なのは、今なんのためにお参りするのかという気持ちです。テーブルマナーと一緒で、そこにいる人を不快にさせず、今何の時間なのかさえ忘れなければいいと思っています。
- 青江さん
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ご紹介したい方はたくさんいるんですが、ボードゲームで遊ぶ会やオンライン坐禅会をやられている、深川・陽岳寺の向井真人さんをご紹介します。宗派を超えた勉強会でお会いしたり、寺社フェス「向源」でワークショップのリーダーをやっていただいたり、一緒にゲームをしたり、もう長い付き合いです。とにかく素敵な方ですよ!
青江覚峰さんプロフィール
著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『
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