小学校の中で焼かれたパン
浅草の千束は、歓楽街である六区からひさご通りを抜け、言問通りを渡った先のエリア。『セキネベーカリー』は明治39年(1906)に創立された台東区立千束小学校の向かいにあり、付近は六区の喧騒から離れていることもあり、落ち着いた雰囲気が漂っている。
千束小学校には隣接する形で千束公園があり、そのすぐ横に歴史を感じさせる長屋風の建物がある。新しく整備された町並みの中で異彩を放っているのだが、実は『セキネベーカリー』はこの千束小学校と長屋と深い縁があるのだ。
『セキネベーカリー』は、1947年に初代の関根貞一郎さんが始めた。食糧難の時代でもあり、小麦粉はアメリカから配給されたものを使っていたという。当時、小麦粉は配給されるものの、満足な調理器具を持っている人は少なかった。そこで貞一郎さんは、お客さんから配給物の小麦粉を受け取り、パンを焼いてあげるという商売を始めたのだ。
ようやく迎えた復興期
そしてパンを焼いていたのが、なんと千束小学校の中。当時、千束小学校には戦災者救済会があり、多くの戦災者が暮らす仮住まいがあった。千束公園に隣接する長屋も、戦災者を収容するための建物だった。まだまだ食べものに不自由する時代、小学校で焼かれたパンが、どれだけ多くの戦災者のお腹と心を満たしたことだろう。
ちなみにパンを作るミキサーも窯も、進駐軍から払い下げてもらったもの。焼け跡の中で手に入るものを活用し、人々のためにパンを焼いていたのだ。なんと賢く、たくましいのだろうか。
その後、『セキネベーカリー』は学校から長屋のはじ部分に移る。実はこの長屋は、小平にあった陸軍の兵舎から、材木を流用して建てられた。当時の都心部では材木が手に入りにくかったのだろう。ちなみに『セキネベーカリー』の現店舗も、同じ兵舎の材木を使って建てられたもの。当時の寸法のため、天井も低かった。今は改装して天井を高くしているが、梁は動かせないため、飛び出た状態になっている。実は歴史のある建造物なのだ。
さらに『セキネベーカリー』は1950年ぐらいにバラックの向かい、現在の場所に移る。浅草はようやく復興期を迎え、焼け跡に建物が立って人々が戻り、かつての歓楽街の姿を取り戻していった。飲食店も増え『セキネベーカリー』もパンを卸す先が急増。作れば作るだけ売れた時代だったという。
さらに学校給食も始まり、そちらにもパンを卸すようになった。一時は台東区のほとんどの小中学校に卸していたというから、すごい。工場もフル回転で、現在は使われていない建物の右側部分に大型の機器を入れて、毎日、大量のパンを焼いていたという。当時の巨大なミキサーやホイロなどの機器は、今も残されている。
街の人に愛されてきたパン
しかし、だんだん生徒数が減り、給食メニューもパン以外のものが増えていき、取引は減少。給食はやめてしまう。そのタイミングで現在の店舗に改装し、店舗販売に力を入れるようになった。現在の『セキネベーカリー』は多種多様なパンを作っているが、それはこのタイミングからだった。リテイルベーカリーの長所を活かし、少量ずついろいろなパンを作って、できるだけ焼きたてを食べてもらいたいと考えたからだ。
そんな『セキネベーカリー』の店内は、まさしく百花繚乱。アンパン、食パンなどの定番から、フランスパンなどのハード系。工夫をこらした惣菜パンや菓子パン類もズラリと並び、見ているだけで気分があがってくる。
浅草は一時期の寂れ具合はどこへやら、独特の魅力をうまくアピールして人気を取り戻したが、現在はコロナ禍もあってまたしても人の数が減ってしまった。それでも『セキネベーカリー』には、パンを求める人が切れ目なく訪れてくる。戦後すぐから現在まで、『セキネベーカリー』のパンは、浅草の人たちを元気づけているのである。
※2022年3月1日より値上げの予定。詳細は店舗にお問い合わせください。
取材・撮影・文=本橋隆司