鎌倉はなぜ選ばれたのか?
そもそも頼朝は、なぜ幕府の所在地に鎌倉を選んだのか?
頼朝はもともと京の都に近い尾張国愛知郡熱田(今の愛知県名古屋市熱田)で生まれ、長じてからは父の源義朝とともに、朝廷のある京で活動していた。その後、配流となった伊豆よりも、鎌倉は都から遠くに位置するというのに。よく言われるのは「都の勢力が及ばない地である」ということ。東国は武士勢力の基盤が強く、天皇を中心とした旧来の貴族階級の力が及びにくいので、武家政権の中心地に最適というわけだ。だが地理的理由だけなら、他にも適地はいくらでも見つかる。
そこでまずは、頼朝が鎌倉の地に幕府を開いた理由が感じられる地を、巡ってみることにしよう。
源氏相伝の地・鎌倉で源氏の守り神を参詣
まず忘れてはならないのが、鎌倉というのは源氏にとって相伝の地であったことだ。頼朝の五代前の源頼義は、前九年合戦(1051〜1062)で陸奥の安倍氏を滅ぼした。相模守(さがみのかみ)に任官され鎌倉の地を賜った頼義は、康平6年(1063)に源氏の守り神である京の石清水八幡宮を勧請し、由比ヶ浜に「由比若宮」を創建したのだ。
これこそが決め手なのではないか。
JR横須賀線を鎌倉駅で下車すると、東口改札口を出た。最初に目指すのは、源頼義が創建した「由比若宮」。駅前ロータリーには、ひっきりなしにバスやタクシーが行き来する。そんな様子を尻目に『鶴岡八幡宮』に続く若宮大路へ。
大路を南下し、横須賀線の高架前で道を渡ると線路に沿った道を往く。こうして駅から10分ほど歩くと、閑静な住宅地の路地奥に、小さな社(やしろ)を発見。それが治承4年(1180)、鎌倉入りを果たした源頼朝が遥拝(ようはい)し、神意を伺ったという由比若宮だ。頼朝が受けた神意に関しては諸説あるが「鎌倉の地に武家政権の本拠を置くように」と告げられたと考えるのが、妥当だと思われる。
この「由比若宮」は後年頼朝により小林郷北山の地に遷された。それが現在の鶴岡八幡宮。この社は現在の鶴岡八幡宮の元であるということから「元八幡」とか「元鶴岡八幡宮」とも称される。目の前の小さな社こそ、頼朝が鎌倉の地に幕府を置いた大きな理由だったのかと思うと、じつに感慨深い。
優れた防御力を持つ名越切通し(なごえきりどおし)へ
そのまま線路に沿って東に進むと、古くからの鎌倉への出入り口のひとつ名越切通しへ至る。要害の地であった鎌倉は、外の地域と行き来する際には必ず峠を越えなければならない。周囲の山は標高100メートル程度だが、山道はその数字以上に険しいので、なめてはいけない。さらに小さな河川が複雑な谷戸を形成しているため、いざという時に優れた防御力を発揮する。
頼朝が鎌倉を選んだ理由とされるもう一点が「鎌倉は三方が山で一方が海という、天然の要害であった」ということ。これはいざ攻められた時、周囲の山が防衛線となってくれるのだ。しかも一方は海だから、諸国との交易には困らない。
そして山を越える場所には、人や物資の往来が便利なように山を切り開いた「切通し」を整備していた。これは交通の便を計りつつも、大軍が一度に越えられないように、切り拓いた山や丘陵の一部の道幅を狭くしたうえ、見通しを悪くした道のこと。
こうした切通しがある道が、鎌倉への出入口に当たる7カ所に設けられた。江戸時代頃になると、これらは「京の七口」をもじって「鎌倉七口」と呼ばれるようになった。名越切通しもそのひとつで、鎌倉から三浦方面に通じる要路。道が険しく、難路であったため「難越=なごえ」と名付けられたと言われている。
鎌倉方面からの登り口は、大町の住宅地の外れから急坂を辿る。人家がなくなるのと同時に道幅は人ひとりが通れる程度になり、やがて未舗装の山道となる。山道に入る手前で振り返ると、横須賀線の線路の彼方に富士山の勇姿が望めた。
山道はなかなかの急坂であったが、その分高度を稼ぐのも早く、住宅地の登り口から15分ほどで切通しに到着。
ここは第三切通しと呼ばれ、さらに直進すると「まんだら堂やぐら群(中世における武士や僧侶の横穴式墓所)」への分岐が現れ、すぐに第二切通しが現れる。その先には最も高さがある第一切通しが残されているという、切通しの3段構えとなっている。
第一切通しの先は亀ケ丘の住宅地になる。そこまでいったん下ったら、元の通りを再び上がり、第三切通しの分岐まで引き返す。
その際、まんだら堂やぐら群にも立ち寄った。ここは普段は非公開で、フェンス越しにやぐら群が見られる。次回の特別公開は、2022年4月末から5月末の土日祝及び月曜の予定。これはまた見に来なくては!! だね。
地形が一望できる衣張山から鎌倉を見下ろす
名越切通しまで登ってきたなら、そのまま「お猿畠の大切岸」を経由して、衣張山まで足を延ばすのもいいだろう。山の名は頼朝と妻の北条政子が、夏の暑い日にこの山を白絹で覆い、雪山に見立て涼をとったという伝説に由来するらしい。突拍子もない話なので後世の創作だと思われるが、それもまた一興というもの。
名越切通しから少し登って行くと、法性寺方面へ下る道が分岐。それを過ぎると長さ800メートルにも及ぶ断崖が現れる。これが「お猿畠の大切岸」。長らくこれは鎌倉幕府執権の北条氏が、三浦半島の宿敵である三浦一族の攻撃に備えて構築された防御施設と言われてきた。
しかし最新の研究で、14〜15世紀(頼朝の時代から数百年あと)に鎌倉で建てられた建造物の基礎石を切り出した跡と判明。何だか歴史ロマンが打ち砕かれた感もあるが、防御施設説は完全否定されたわけでもないそうだ。三浦氏の攻撃を防ぐ施設と考えた方がワクワクする。
その先にはパノラマ台と呼ばれる小さなピークがあり、鎌倉市街から富士山まで見渡せる。そこを下ると、周囲は急に整備された佇まいとなった。「鎌倉市子ども自然ふれあい公園」と名付けられた一画で、そのまま住宅地の外れに出た。
公園内を北へと進むと、再び山道が現れる。さっきまで住宅地を歩いていたとは思えないほど、深山幽谷を分け入るような山道を歩くこと20分。狭い急登を登りきると唐突に視界が開けた。そこが標高121メートルの衣張山山頂だった。
ここからは三方が山、南側に海という鎌倉の地形が一望できる。ここまで足を運べば、頼朝が目をつけた、鎌倉が持つ地の利を十二分に体感できるだろう。
帰りはそのまま山道を北に下り、苔の階段で知られる杉本寺方面へ向かう。杉本観音バス停から鎌倉駅行きバスに乗るもよし、元気があればそのまま駅まで歩くのもいいだろう。全部歩いても5時間ほど。コロナ禍で運動不足気味の昨今、ちょうどいい運動量かも知れない。
実際に鎌倉の地、とくに切通の道を歩いてみると、その守りの堅さを実感できる。そのような地が父祖伝来であるならば、頼朝が鎌倉を選んだ理由としては十分過ぎるだろう。
次回は源頼朝が再起を誓い暮らした地、伊豆の韮山を巡る予定です。頼朝の後ろ盾となった北条氏関連の史跡が数多く残されています。
取材・文・撮影=野田伊豆守