頼朝の後ろ盾となった北条一族。彼らが支配していた韮山の地

平治の乱で無念の最期を遂げた源義朝。だがその子・頼朝はまだ若かったことと、清盛の継母である池禅尼らによる助命懇願により、永歴元年(1160)に伊豆の地へ流罪となる。清盛とすれば、伊豆のような遠隔の地に流せば、まず再起は不可能だと考えたのであろう。

最初の配流先は諸説あるが、『曽我物語』には工藤祐経(すけつね)の父・祐継の所領であった久須美荘と記されている。祐継が没すると、その異母弟の伊東祐親が監視した。ところが頼朝は祐親が上洛中、その三女である八重姫と密通し、男児までもうけてしまう。

京から戻った祐親は激怒し、男児を殺したうえ頼朝も亡き者にしようとした。だが頼朝は祐親の子の祐清に助けられ、北条時政の館に逃げ込む。伊豆に流され15年が経過した安元元年(1175)のことだ。こうして頼朝は、一番の後ろ盾となってくれる北条一族と、時政の娘で生涯の伴侶である政子と縁を結ぶこととなったのである。

素朴な雰囲気を残す伊豆箱根鉄道の韮山駅。
素朴な雰囲気を残す伊豆箱根鉄道の韮山駅。

電車を降りた韮山の地が、北条一族ゆかりの地である。駅前には『鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館』がオープンしているので、まずはこちらに立ち寄って歴史的な背景を学びつつ、訪れる場所のコースを吟味するのも悪くない。しかも物産館も併設されていて、土地の名物を知ることもできるのだ。

韮山駅の線路を挟んだ向かいに建つ大河ドラマ館。
韮山駅の線路を挟んだ向かいに建つ大河ドラマ館。

頼朝や政子とともに富士の勇姿を眺め、最初の挙兵地である山木の地へ

大河ドラマ館から畑の中に伸びる道を東へ800mほど歩くと、蛭ヶ小島に至る。

頼朝は伊東祐親の元ではなく、最初からこのあたりに流されてきたとも言われているが、正確な場所はわかっていない。当時の狩野川は、今よりも分流が多かったため、いくつもの中州が形成されていたと考えられている。蛭ヶ小島はそんな中州のひとつで、文字通りヒルが多い低湿地だったとも伝えられているようだ。

頼朝が配流されたと伝わる蛭ヶ小島。
頼朝が配流されたと伝わる蛭ヶ小島。
現在は小さな歴史公園となっている。
現在は小さな歴史公園となっている。

今ではこぢんまりとした公園となっていて、若き日の源頼朝と北条政子が富士山を見つめる「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」という像が建てられている。これは治承元年(1177)、頼朝31歳、政子21歳の姿を模している。ここではぜひ、ふたりと肩を並べるようにして富士山を眺めるのがいいだろう。

頼朝31歳、政子21歳。ふたりの視線の先は?
頼朝31歳、政子21歳。ふたりの視線の先は?
雄大な富士の山が。当時は宝永山の火口はなかった。
雄大な富士の山が。当時は宝永山の火口はなかった。

蛭ヶ小島からさらに東へ30分ほど歩くと、香山寺がある。頼朝が挙兵した際、最初の標的となった山木判官兼隆が創建したとされ、山木の菩提寺でもある。襲撃された館もこの付近にあったのだが、正確な場所は特定されていない。

平安時代末期、伊豆国は平家の直轄地で、平家一族の山木はその目代を務めた。高台に建つこの寺の境内からは、山木地区を一望することができる。

源氏再興の戦いにおける最初の犠牲者・山木兼隆の供養塔。平成2年(1990)に建立された。
源氏再興の戦いにおける最初の犠牲者・山木兼隆の供養塔。平成2年(1990)に建立された。
香山寺からは山木地区、さらに遠くの江間地区まで見渡せる。
香山寺からは山木地区、さらに遠くの江間地区まで見渡せる。

韮山駅から蛭ヶ小島までは畑を貫く直線道路、そこから香山寺までは、古くから続く住宅街を抜ける。

その一画に、江戸時代に伊豆国の代官を務めていた江川家の館が残されている。世界遺産・韮山反射炉の建設を指導した江川担庵を輩出した家だ。さらに江川家に隣接する城池のほとりには、北条早雲が築いた韮山城もある。

いずれも時代は違うが、立ち寄るのも一興だろう。

城池のほとりには戦国時代に築かれた韮山城が聳(そび)えている。
城池のほとりには戦国時代に築かれた韮山城が聳(そび)えている。

北条氏が支配した地の中心となる、守山の周囲をグルリと散策

伊豆半島を南から北に流れる狩野川。伊豆の国市韮山の地は、その中流域に当たる。東岸には守山という小山が聳えていて、麓の北西部がかつてこの地方を支配した北条氏の館が築かれていた場所だ。この守山をグルリと回れば、北条氏がこの地に根を張っていたことを肌で感じることができる。

韮山駅から守山を目指すと、まずは北東の麓にある光照寺に行きつく。頼朝が伊豆に構えた館は、この寺の周辺にあったと伝わっている。

頼朝の館があったと言われている光照寺。
頼朝の館があったと言われている光照寺。

光照寺の北東角で交差する小径には、それぞれ「頼朝・政子語らいの路」と「北条の里さんぽ路」という名前が。東西方向に延びる「北条の里さんぽ路」を西に向かうと、小さな路地の突き当たりにある民家の門脇に、石造りの小さな井戸がある。

それが「北条政子産湯の井戸」で、その名の通り政子の産湯を汲んだ言い伝えが残されているが、造りからすると、もっと後の時代のものとも見られている。言い伝えを素直に信じた方が、ロマンがあっていいでしょう!

民家の門前に残されている産湯の井戸。
民家の門前に残されている産湯の井戸。
守山の周囲を巡る小径に付けられた、しゃれた名前。
守山の周囲を巡る小径に付けられた、しゃれた名前。

そこからさらに500mほど歩くと、守山と狩野川の間にある広大な平場が現れる。そこが「北条氏邸跡」だ。発掘調査の結果、中国陶磁器やかわらけなどが多数出土。また遺跡の年代から、北条時政の館であったと考えてよいだろう。

思いのほか広大な敷地に驚かされる北条氏邸跡。解説版に描かれた建物の想像図を透かして見ると当時の様子が思い浮かぶ。
思いのほか広大な敷地に驚かされる北条氏邸跡。解説版に描かれた建物の想像図を透かして見ると当時の様子が思い浮かぶ。

小さな山だからと侮るなかれ。山頂ではビッグスケールの眺望が待つ

北条氏邸跡から守山を回り込むと駐車場があり、その脇から守山山頂の展望台へと続く登山道が延びている。標高101mの小さな山だが、登山道は急で運動不足の身にはかなり堪(こた)える。

北条氏邸跡側の登り口から守山山頂を目指す。かなり足にくる急坂だ。
北条氏邸跡側の登り口から守山山頂を目指す。かなり足にくる急坂だ。

だがイッキに高度を稼いでくれるので、山頂展望台までは20分もあれば辿り着く。展望台からは韮山周辺の盆地からそれを囲む伊豆の山々、そして遠く富士山まで、パノラマの如く望むことができる。

狩野川を境に左手は江間の地。北条氏の館と向かい合う位置関係。
狩野川を境に左手は江間の地。北条氏の館と向かい合う位置関係。

展望台から少し戻ると、登ってきた北条氏邸跡方面に下る道と、真珠院方面へ下る道の分岐点があるのでこちらの道へ。膝が笑わないよう10分ほど下ると、住宅が立ち並ぶ小径に出る。そこから5分も歩かずに、真珠院の山門に到着した。

ここの境内には、頼朝の最初の妻と言われている八重姫を供養する八重姫静堂が建っている。父の伊藤祐親に頼朝との仲を引き裂かれ、そのうえ頼朝との間に生まれた男児は殺されてしまう。頼朝は北条時政の館に逃れ、彼を追ってこの地まで来た八重姫だったが、失意のうちに眞珠院の前を流れる古川に身を投げたとも伝えられている。

幟の奥が展望台。真珠院方面への道を下った。
幟の奥が展望台。真珠院方面への道を下った。
八重姫を祀る静堂。梯子(はしご)があれば助けられたという言い伝えから、小さな梯子が供えられている。
八重姫を祀る静堂。梯子(はしご)があれば助けられたという言い伝えから、小さな梯子が供えられている。

旅を締めくくるのは国宝の仏像を祀る北条氏ゆかりの古刹

そして最後に訪れたのが、守山の東麓に立つ願成就院と、その奥の守山中腹に立つ守山八幡宮だ。

治承4年(1180)、以仁王から平家打倒の令旨を受け取った際、頼朝は守山八幡宮を遥拝したと伝わる。そして願成就院は文治5年(1189)、時政が頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のために建立したと言われている。

ただ今も残されている運慶作の国宝の仏像が、それよりも3年前から製作が始められているので、北条氏の氏寺として建立されたとも見られている。

願成就院の山門の奥に位置する守山八幡宮。
願成就院の山門の奥に位置する守山八幡宮。
北条時政公の廟所。
北条時政公の廟所。

鎌倉幕府前半の事跡を記した歴史書『吾妻鏡』によれば、願成就院の伽藍(がらん)は北条時政からその子義時、さらに孫の泰時の時代まで、造営が続いていたとされる。全盛期には現存する寺域よりも遥かに広大な敷地を有し、多くの堂宇だけでなく巨大な池もあったというのだ。

だが後年、伊勢宗瑞(北条早雲)による伊豆討入りで、堂宇はほぼ焼けてしまう。その後に再建された堂宇も、豊臣秀吉による小田原征伐の際に灰燼(かいじん)に帰した。現在の寺院は、江戸時代になってから末裔の北条氏貞が再建したものである。

境内には時政の墓があるので、今後の旅の無事をお祈りしつつ、見所目白押しだった今回の旅を締めくくった。

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次回も伊豆の北条氏ゆかりの地を巡ります。さらに足を延ばして、あの怪僧ゆかりの地や古戦場も紹介する予定です。

野田伊豆守(のだいずのかみ)
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

取材・文・撮影=野田伊豆守