会社を辞めても、札幌に帰るつもりはなかった。私は中学時代にいじめられて不登校になった経験があり、地元にいると、当時の同級生にばったり会ってしまうことがあるからだ。しかし母は「会社を辞めるなら実家に帰ってきなさい」と言った。

当時の私は母に逆らえず、しぶしぶ札幌に帰った。札幌ではバイトをしながら、学生時代と同様に、新人賞に応募する小説を書いて過ごした。平穏ではあったが、私はやっぱりこの街を出たくてたまらなかった。

また、母とも距離を置きたかった。母に逆らえないのは窮屈だが、同時に支配されることで守られているような安心感もあり、「やばい、このままじゃ共依存に陥るぞ」と危機感を抱いたのだ。母との関係を健全なものにするためには、私が自立するしかない。しかし、情けない私は一人暮らし資金を貯めることがどうしてもできなかった。

札幌に戻った翌年の夏、登山経験もないのに北アルプスの山小屋に働きに行った。住み込みで働けるならどこでもよかった。とにかく、札幌と母から逃れたかった。この年は初年度ということで、3ヶ月間の短期スタッフに応募した。

母は、3ヶ月経ったら私が家に帰ってくると思っている。しかし私は、下山したら東京で部屋を借りようと思っていた。部屋さえ見つけてしまえば、父が保証人になってくれるだろう。どうしてこんな家出みたいなやり方を選んだのか、今思うと不思議なのだが、当時の私は「それしかない!」と思い込んでいた。

また、私は山小屋で恋人と出会った。のちに結婚して離婚することになる元夫だ。仮にKさんとしよう。

Kさんは長期スタッフだったので、一年のうちほとんどを山の上で過ごす。住民票と荷物は川崎に住む弟の家に置いてあるそうだ。山小屋がないオフシーズンは、旅をしているか弟の家にいるという。

Kさんは「東京に住むなら一緒に住む?」と言った(季節労働者はカジュアルにルームシェアや同棲を始める人が多い)。その提案に私は飛びついた。寂しがり屋で怖がりだから、一人よりはKさんがいてくれたほうが安心だ。今思えば、母との共依存から脱してもなお、私は依存先を探していた。

私は下山後、横浜の父の家に身を寄せて短期バイトをしながら、母からの「いつ帰ってくるの?」という電話をのらりくらりとかわした。そうしてKさんが下山してくるのを待った。

下山してきたKさんと一緒にいるとき、マクドナルドから母に電話をかけた。

「あの、実はこっちに部屋を借りようと思って……。で、一緒に暮らしたい人がいるんだけど……」

「何言ってるの! ダメに決まってるでしょう!」

母の判断は早い。やっぱりと言うべきか、同棲の許可は下りなかった。「とっくに成人してるんだから親の許可なんていらなくない?」と言う人もいたが、当時の私にとって母は絶対だ。母にダメと言われ、私は簡単に折れた。

しかし、母は私が東京で部屋を借りること自体は許してくれた。私は一人暮らしを始めるべく、生まれてはじめての部屋探しをした。

とにかく家賃が安いところ。その条件で見つけた物件は、調布駅から徒歩15分の二階建てアパートだった。部屋は4畳のキッチンと6畳の和室。お風呂はユニットバスで、洗濯機は外廊下に置く。

6畳間にひとつだけある窓を開けると、そこは大家さん宅の庭で、大きなシュロの木が植わっていた。シュロの木を知らなかった私とKさんは、「ヤシだ」「調布にもヤシがあるんだね」と言い合った。

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年が明けてすぐ、私は調布のアパートに入居した。そのアパートは名前が「〇〇荘」で、2008年当時ですら、友人たちから「今どき『荘』って!」とネタにされた。

家財道具は12月中にそろえていた。ネットの掲示板で引っ越しのために家財道具を譲ってくれる人を見つけ、足りないものはリサイクルショップで安いものを探した。テレビは、Kさんの弟が不要になった小さいものをくれた。布団はニトリで新しいものを買った。

それらをKさんに手伝ってもらいながら部屋に運び入れ、荷ほどきをする。荷ほどきを終えて生活ができるようになっても、必要最小限のものしかない質素な部屋だった。

住みはじめてから気づいたが、この家は日当たりがあまりよくない。そのせいか、住んでいると心まで寒々しくなってくる。物件選びにおいて日当たりがどれだけ重要か、このときはじめて思い知った。

大騒ぎしてようやく手に入れた自分の居場所は、想像していたほど居心地がよくなかった。自分しかいないのに、なんだか部屋になじめないのだ。大家族で育ったからか、無音がやたらと耳に障る。寂しくてテレビをつけるが、隣の住人の迷惑にならないよう音量を絞るので、よく聞き取れない。

ありあまる自由を手にした途端、私はそれを持て余した。

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引っ越しから数日後、派遣の短期バイトを始めた。多摩センターにあるコールセンターだ。問い合わせに答えるだけの簡単な業務だったが、理不尽なクレームが多く、心が疲弊した。仕事中に泣き出してしまう女の子を何人も見た。

バイトを終えてビルを出ると、外はもう真っ暗だ。少し先にサンリオピューロランドの華やかな明かりが見えて、なんだか胸がぎゅっとなる。京王線に乗り、調布に戻る。駅前の西友で値引きシールの貼られた食材を買い、買ったそばから「帰ったらこれを調理するのか……」と億劫になった。

駅からやや遠い駐輪場まで歩き、そこから自転車で家を目指す。1月の風が頬に冷たい。マフラーにあごをうずめるようにして、気力を振り絞って自転車を漕いだ。MDウォークマンからはTHEピーズのアルバムが聴こえる。そのMDを選んだのは自分なのに、なぜだか泣きたくなった。

そうして家に帰っても、ほっと安心することはない。これからご飯を作って食べて、お風呂に入って、明日に備えなければいけない。そのすべてが憂鬱で、考えただけで「やだやだやだ!」と手足をバタバタさせたくなる。小説を書く余裕はないし、読むのも寝る前に少し読めるかどうかだ。

お金がないから、暖房はなるべくつけない。煙草も、引っ越しを機にやめていた。お金がなくて買えなくなったのだ。本も買えなくなり、図書館を利用するようになった。

次第に、私はバイトを休みがちになった。バイトが辛かったわけではない。もはや持病であるメンタルの不調がやってきたのだ。

家から出られず、お風呂にも入れない。山小屋勤務と引っ越し準備で気が張りつめていたぶん、引っ越しが終わって気が抜けたのか、はたまた環境の変化が原因か。派遣会社に病欠の連絡をするたび、担当者からため息交じりに「いったいなんなんですか?」と言われ、申し訳なくて情けなくてたまらなかった。バイトひとつ続けられない私は、いったいなんなんだろう?

Kさんは半同棲と言えるほど頻繁にうちに来た。彼も、次の山小屋シーズンが始まるまでの間を短期バイトでつないでいる。私の家からバイトに向かい、私の家に帰ってくることも多かった。

Kさんとの関係は良好だった。ただ、彼はメンタルが強いので、私のメンタル不調がどういうものか分からない。私がうつ状態で寝込んでいるのに、友達を連れてきたり、私に用事を頼んだりすることがあった。優しくていい人なのだが、マイペースすぎるというか、空気が読めないのだ。

そうだ、彼氏がいるからといってメンタルが安定するわけじゃないんだった。

そんなことは経験上とっくに知っていたはずなのに、彼氏ができるのが久しぶりだから忘れていた。結局、自分の心をどうにかできるのは自分しかいないのだ。

「半同棲」という甘やかな響きとは裏腹に、調布での日々は鬱々としたものだった。

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春になってコールセンターのバイトの契約が終わり、私は初台の会社でデータ入力の短期バイトを始めた。相変わらずメンタルの調子は悪く、そのバイトも何度か休んでしまった。

6月になると、Kさんは山小屋へ行った。私も山小屋で働く予定だったが、その年の私の勤務は7月からだったので、1ヶ月ほど一人で生活することになった。ちょうどデータ入力のバイトも契約期間が満了し、無職になった。

時間がたっぷりあるのをいいことに、私は小説の執筆に打ち込んだ。実はこの前年に応募した作品が初めて一次選考を通過したので、「次こそは二次選考を通過したい!」と意気込んでいたのだ。

その小説は、一人暮らしをしていた女の子が自殺を図って実家に連れ戻され、優しく上品だけれど支配的な母親と共依存関係に陥る様子を、義理の弟の立場から冷静に観察する内容だ。今思うと、ずいぶん自己投影的だと思う。自分の弱さや惨めさをさらけ出すので、書いていてかなり辛かった。

執筆の合間は、よく調布市立図書館へ行った。そこは、それまで私が行ったことのあるどの図書館よりも小説の蔵書が充実していて、何時間いても飽きなかった。調布で唯一好きな場所だ。

小説を書くことは当時の私のアイデンティティで、それを失ったら生きていけないと思っていた。いつの間にか「小説が好き」という根っこの部分を忘れて、もっと切実な気持ちで、己に課すように書いていた。ずっと作家になるのが夢だったけれど、心のどこかではうすうす「たぶんなれないんだろうな」と気づいていて、かと言って夢を諦めるのが怖かった。

山小屋に行くまでの間、節約のために冷房をつけない6畳の部屋で、しがみつくように小説を書いた。自分でも面白いと思えないものを、必死になって書き上げた。

このとき書き上げた小説は案の定、一次選考を通過しなかった。

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夏の間、私はKさんと山小屋で働いた。山小屋では、調布生活が嘘のようにメンタルの調子がよかった。

秋になってKさんより一足先に下山すると、姉が第二子出産のため実家に里帰りしていた。当時2歳だった姉の長男はかなりの暴れん坊で、母から「赤ちゃんが生まれたらお世話が大変だから、実家に帰って手伝ってほしい」と言われた。私は実家に帰り、母と祖母、姉、姉の子(2歳と新生児)と過ごした。子育てがあったためか、このときは母との関係も良好で、家族と楽しく過ごすことができた。

そうしているうちに調布に戻るのが嫌になってしまい、その翌年の春、私は調布の部屋を引き払った。周りからすれば「調布に住んでた期間ってなんだったの?」という感じだろう。自分でも、なんだったんだろう?と思う。

私は今、町田で一人暮らしをしている。一人暮らしをするのは調布以来だ。一人暮らしは寂しいし、相変わらずメンタルの調子が悪いときもある。

だけどあのときと違うのは、今は自分の家を「居心地がいい」と感じていること。今は、家に帰ってくると安心する。

調布のアパートは、なんであんなにも安心できなかったんだろう?

よっぽどあの土地との相性が悪かったのか、初めての一人暮らしに慣れなかったのか、メンタルの調子が悪かったせいか。調布じゃなければ、はたまたメンタルの調子がいいときならば、もっと穏やかな気持ちで暮らせたのか。答えは謎のままだ。

今でも調布と聞くと、窓から見えるヤシのような木を思い出し、そのトロピカルさとは裏腹に寒々しい気持ちになるのだった。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
生まれ育ちは札幌、住んでいるのは東京なのだが、婚姻届けを出したのは栃木県の足利市だ。当時夫が仕事の都合で足利に住んでいて、彼のアパートに私が引っ越して籍を入れた。しかし、足利で一緒に暮らしたのはわずか4カ月ほど。その後はアパートを引き払って海外へ長旅に出た。最初からそういう計画だったのだ。短い期間でふたたび引っ越すとわかっていながら、そのタイミングで、その土地で入籍したことについて、「効率が悪い」と言われればぐうの音も出ない。けれど、私たちにとってはそれが最善だった。足利の思い出は、4カ月間の新婚生活とセットになっている。春かすみと花粉のせいでぼんやりとした、たぶん幸福な日々の記憶だ。
2022年12月30日、年の瀬の常磐線・磯原駅に人の姿は少なかった。改札前のベンチに男性が1人腰かけていたので、私は誰もいない窓辺までスーツケースを引きずっていき、母に電話をかけた。「今、磯原駅。さっきまでKさん(夫)の実家にいたんだけど出てきちゃって……。これから町田に戻る。明日、札幌行きの航空券を取ったの。実家で年越ししていい?」「もちろん。あなたが町田で1人で泣いているより、実家に帰ってきてくれたほうがよっぽどいいわ」駅に来る前に事情をLINEしていたせいだろう、母はすんなりと飲み込んでくれた。通話を終えて、改札前の大きなベンチに座る。どうしてこんなことになってしまったんだろう。