夜の空気が残る店内で、2016年から朝ごはんをスタート
『tractor』は、ボリュームたっぷりの朝ごはんが食べられると、若い女性を中心に人気のお店。しかし、実はそれは店の一面でしかない。 店内は、壁紙材を剥がしたままらしき壁面に囲まれて、年季の入ったソファが置かれ、よく見るとターンテーブルも設置されているし、カウンター内には酒瓶も並ぶ。そう、この店は本来、夜の店なのだ。
2010年代前半からDJが入るバーとして営業し、中目黒界隈で知られた存在だった『tractor』。終電がなくなってからもお酒と音楽で賑わう店が、朝8時にオープンして朝ごはんメニューを提供し始めたのは2016年のことだ。
「夜しか店を開けていなかったので、朝の時間を使ってやろうかなと思って」と話す代表の橋本亮(はしもとりょう)さんは、オーストラリアのシドニーに5年間滞在していた経験を持つ。「オーストラリアって、朝ごはんのカルチャーがすごいんですよ」。オーストラリアを訪れたことがない人も、パンケーキが有名な豪系レストランが日本に進出しているから、ピンとくるはずだ。
オーストラリアにはさまざまなスタイルの朝ごはんを出す店があるが、『tractor』では、オーストラリアのカフェならどこにでもあるようなメニューを出している。
「本当にコアなメニューを出しています。だから、オーストラリアのカフェに行ったことがある人がメニューを見たら、そのままだと感じてもらえるんじゃないかな」と橋本さん。
あれこれ選べるシンプルなメニューは、すべてベストコンディション
A4サイズの紙に印刷してマネークリップで止めただけという、そっけないメニューからも、旅先のような匂いを感じて、ワクワクする。
代表するメニューは、基本のトーストと卵に追加していくワンプレートだ。トーストも卵も選択肢はそれぞれ3つ。パンはライ麦パン(rye)、白いロールパン(white bread roll)、グルテンフリーのパン(gluten-free)が用意されている。
そして卵がふたつ。調理方法をポーチドエッグ、スクランブルドエッグ、またはフライドエッグから選べる。この基本メニューにプラスして、アボカドを乗せたり、マッシュポテトを添えたりと好みのひと皿になるようカスタマイズしていく。
追加で組み合わせるメニューの中で、人気があるのはアボカドだ。口に入れた瞬間にとろっとクリームのようになる絶妙な熟し加減がたまらない。トッピングのナッツ類とのコントラストもニクい。
ライ麦パンは、噛み切れるか心配になるほどの厚切りで提供される。実はさっくりとしていて歯切れがよく、予想に反して食べやすい。専用に焼いているというサワードゥだが、クリーミーなアボカドと一緒に食べるせいもあって、酸味はあまり感じない。
卵はポーチドエッグがいちばん人気。自宅で作るのは難しい上に、ナイフを入れた瞬間にとろりと黄身が広がる様子は、人生で何度やっても新鮮な光景なのだから当然かもしれない。しかし、スタッフの小川友子さんによると「卵料理をよく知っている人は、スクランブルドエッグを選ぶことが多いですよ」とのこと。卵料理の奥深さをどの調理方法で体験しようか、あれこれ考えるのも『tractor』で朝ごはんを食べる醍醐味だ。
もう1つ基本メニューに追加したのが、トマトとチーズ。みずみずしくフレッシュなトマトは甘みが強く、添えられていたイチゴの甘酸っぱさとも相性がいい。フレッシュでクセのないクリームチーズには、ディルが混ぜこまれていて、いっそう爽やかだ。
一つひとつはなにげない料理だし、どんな組み合わせで食べるかは食べる人に任されている。それなのに、お皿は見た目も味もまとまっていて、ひと口食べるごとに心沸き立つ。こんな朝ごはんでスタートした1日は、夜までずっと気分よく過ごせるというものだ。
朝ごはんという日常をエンターテインメントに
「日常使いの店にしてほしいと思って始めたんですよ」と橋本さんは話す。東京にはあらゆる価格帯の外食手段が溢れているが、朝の営業を始めた2016年当時、お店に朝ごはんを食べに出かけることは、まだ一般的ではなかった。
一方、オーストラリアでは、夕飯は高価格帯のレストランか、ピザ店やデリのような廉価な店のどちらか。その分、気軽な外食として、朝ごはんを食べにカフェに出掛けることが楽しみのひとつになっている。そんな時間の過ごし方を朝の中目黒で再現したいというのが、橋本さんの意向だった。
朝営業のスタートから7年ほどが経ったが、特にこの数年は特に海外旅行だけでなく、夜遊びの機会もずいぶん失われた。お出かけしたい気持ちとそのエネルギーが、夜の空気を感じる場所で、海外のおいしいものを味わえる『tractor』に引き寄せられたのだろう。今や並んでも食べたい朝ごはんとして人気だが、店側は現在のような状況になるとは予想していなかったそう。
流行のお店と言えるまでになったものの、橋本さんは「フードのクオリティは落としていません」ときっぱり。現在は夜の営業はお休み中だが、諸条件が整い次第、再開するつもりとのこと。1日を元気に過ごせる朝ごはんを経験したら、夜の『tractor』にもそのエネルギーとカルチャーを感じに行ってみたいものだ。
取材・撮影・文=野崎さおり