トンネルに挟まれた田浦駅から始まる専用線の歴史
この姿が珍しく、2009年に雑誌の企画で田浦駅を取材しました。
わざわざトンネルに挟まれた場所に駅ができたのは、すぐ目の前の横須賀の海にあった旧海軍の基地群への物資輸送や、勾配が平坦であったことなどが理由で、その他空襲から列車を守るためという話も聞きました。
大正7(1918)年の官報では“四月十五日ヨリ横須賀線田浦停車場ニ於テ一般大貨物取扱ヲ開始ス”と記載されており、この駅から海軍基地へ至る貨物専用線を伝って物資輸送、それも大型の物資も扱うことが連想されます。
こういった情報はwikiや国会図書館デジタルコレクションなどで自宅にいながら得られるから、全くもって便利な世の中です(情報の精査は必要ですが……)。
専用線はトンネルに挟まれた狭い構内空間から始まります。ホーム脇にプツッと途切れたポイントがあって、その先に専用線の複線トンネルの抗口が見えます。田浦駅での貨物駅としての取扱は2006年に終了し、横須賀線と繋がっていた線路が撤去されたのは2009年までの間でしょう。
長浦港は海軍時代に水雷基地や軍需部などがあって、大正〜戦時中にかけて建てられた倉庫群が残存し、いまは海上自衛隊や民間会社(相模運輸倉庫)が使用しています。
昭和50(1975)年の日本国有鉄道貨物局発行専用線一覧表によると、専用線は東京湾倉庫(株)、アミノ飼料工業(株)が専用者、日本通運が運行し、二社の専用線総延長キロは6.2kmでした。
東京湾倉庫は相模運輸倉庫(株)へ合併され、その後は相模運輸倉庫の専用線となりました。
アミノ飼料工業は合併により伊藤忠飼料(株)となりましたが、昭和57(1982)年まで長浦港の岸壁に横須賀工場があって、専用線は飼料輸送に使用されていました。長浦港は軍需物資の基地と倉庫があったおかげで、終戦直後の食糧難では緊急食糧受け入れ港となった歴史を持ちます。
専用線は食料緊急輸送やその後の飼料輸送にも活躍したのですね。
2009年取材撮影の当時を振り返って線路の跡を巡る
今回は田浦駅取材のついでに巡った専用線の跡を紹介します。14年前に撮影してから再訪していないので、2023年現在はどうなっているか自信を持って書けないのですが、GoogleMapといろいろなサイトを見る限り、だいぶ線路が撤去されているようです。
この記事に載せた写真は2009年当時のもので現況とは異なりますが、「ちょっと前はこうだったんだな」と参考にしていただければ嬉しいです。
2009年の写真を振り返りながら行きましょう。現在の状況はストリートビューを見つつ記述していきます。いわゆるリモート廃線跡巡りというやつです。
田浦駅の橋上駅舎から港側の出口へと歩を進め、マンションが右手の視界に入ります。貨物側線の跡地に建てられました。前方はさっそく倉庫群が並び、相模運輸倉庫と書かれています。三角屋根の壁面に「東」と社紋があって、おそらく東京湾倉庫時代のものでしょうか。
横須賀方向へ少し歩くと、道路の左脇、Eと表記される倉庫前の砂利に線路が埋もれていました。E、F、Kと3棟の倉庫があって、どれも海軍の時代から残存するものです。
ちょっと西側の方へ歩きます。線路が伸びているのが気になります。G倉庫目の前は草地となっていて、複線分岐となった線路があります。その脇には警告看板が。米軍基地によくある看板です。
この先は海上自衛隊艦船補給処となっていて、海軍水雷学校の跡地だったそうです。軌道敷地内は米国政府使用施設ということは、過去に米軍関連の輸送があったのでしょう。
再び先ほどの地点へ戻り、道路脇に沿って続く線路を追います。途中の横須賀港湾合同庁舎前ではポイントのあった名残を見つけ、岸壁へ続いていた線路が埋もれていました。
長くなってしまったので今回はここまで。
後編では専用線についてさらに深掘りしてみましょう。
取材・文・撮影=吉永陽一