熊谷千津さん
公益社団法人日本アロマ環境協会(AEAJ)理事長。アロマサイエンス研究所所長。博士(農学)。薬剤師。 長年、ホスピスでアロマセラピストとして実践を続けながら、アロマテラピーの研究に取り組み、博士号を取得。エビデンスに基づくアロマテラピーの研究と実践、情報発信を続けている。
明治神宮から代々木公園がお気に入りコース
明治神宮は100年ほど前に「永遠の杜」を目指し、人工的に作られた原生林。234種約3万6000本の樹々をはじめ、約3000種の生物が暮らしている。
密集した樹々の中は、爽やかで温かみのある「森林浴の香り」(熊谷さん)が充満しているよう。そのなかでも、花や果実の甘い香り、落ち葉が積み重なった土からの野性味ある香りなど、複雑な香りが漂ってくる。
いっぽうすぐ隣の代々木公園は、道幅や樹木の間隔が広く、散歩したり、ベンチで休んだりしやすいよう整えられている。「風がよく通るので、明治神宮よりやわらかい香り」(熊谷さん)。それでいて、ところどころにあるバラやハーブの植栽から、主張の強い香りを感じられる。
自然に近づけられた深い森と、人が過ごしやすいよう整備された都市の公園、熊谷さんは散歩の中で、香りのコントラストを楽しんでいる。
目を閉じて深呼吸する
アロマセラピストは、目隠しをして香りをかいで、植物の葉や果実を当てるトレーニングをするという。視覚からの情報を断って、嗅覚に集中することで、より感覚が研ぎ澄まされるのだ。
散歩中には、目を閉じて鼻から大きく深呼吸するのが、熊谷さんのおすすめ。自分の鼻詰まりすら気づかないほど無頓着な筆者だったが、言われたとおり目を閉じて意識を嗅覚に向けると、微妙な香りがわかるようになる。
この深呼吸、通勤通学の途中に、行き帰りに1回ずつ行うだけでも良さそうだ。緑のある場所で立ち止まり、香りに集中するひとときが、忙しい毎日に気持ちの余裕を与えてくれる。
香りを言葉で表現してみる
熊谷さんはアロマセラピストになるための勉強を続けていた時、毎日寝る前に、精油をかいで、香りを言語化してメモに残しているという。アウトプットすることで、香りの微妙な違いを認知するようになる。
これを応用して、街や公園で感じた香りを言葉にすると、散歩はより深まる。スマホで写真を撮って、風景とともに香りを記録すると、後から振り返っても楽しめるだろう。
写真にコメントが付けられるSNSを、日記代わりに活用するとよい。他のユーザーとの交流も楽しいはずだ。
歩くことで香りの変化を感じる
ひとつの森や公園のなかでも、風通しや日当たり、生きている菌や植物で香りは変わる。「湿った土の香りが強い」「かすかに苦みある香り」と、歩きながら微妙な違いを味わうのが熊谷さんの散歩。そもそも、1カ所にいると嗅覚は慣れてしまうから、適度に移動する散歩は、香りをキャッチするのに向いている。
また、「花の甘い香りで虫たちをひきつけるように、植物は自分たちの生存に都合が良いように、芳香成分を出しています。同じ場所でも1日の中で香りは変わります」と熊谷さん。
例えば、バラやジャスミンは早朝に芳香を放つし、夏場のオシロイバナは夕方に甘い匂いを漂わせる。通勤通学、買い物などの行き帰りで、街の香りを意識して嗅ぎ分けると、毎日の生活が豊かになりそうだ。
もちろん、季節を香りで感じることもできる。12月頃は、ゆずやみかんといった柑橘類が旬。年明け以降は、梅の名所へ散歩にでかけると、早春の香りを感じられる。
葉っぱの裏側をチェック
熊谷さんによれば、植物は葉の裏側に芳香成分を蓄えている。指でさすって鼻を近づけると、その植物特有の香りがよくわかる。
都市に住んで、草木のにおいを思い切り嗅ぐような機会がない方には、意外に新鮮な体験かもしれない。身近な木立や草の香りをチェックして、お気に入りを見つけるのも一興。
自分の感情と向き合う
25年以上前、熊谷さんがイギリスでアロマを学んだときのこと。50種類のハーブやスパイスの中から、香りだけで自分が今一番欲しているものを選び、思い起こされる情景と感情を言葉にする、というレッスンがあった。
「私が選んだのはナツメグの香り。嗅いだ瞬間、子どものとき母とハンバーグをつくった記憶が蘇りました。外国の1人暮らしでホームシックにもなっていたのでしょう。涙が止まらなくなりました」(熊谷さん)。
「香りは理屈ではなく、ダイレクトに人の感情をゆさぶります」と熊谷さん。嗅覚の刺激は、脳の最も古い部分で、「快/不快」や「好き/嫌い」を司る大脳辺縁系に直接結びつくというのが、科学的な裏付けだ。
香りを味わうということは、自分と向き合うことなのかもしれない。嗅覚の刺激をきっかけに、懐かしい記憶や、湧き上がっては消える感情を丁寧にキャッチしながら、あてもなく歩く。なんと贅沢な時間だろう。
2023年2月、香りの新名所が神宮前に
深呼吸をしたり、葉っぱの裏側を嗅いだりと、少しだけ行動と意識を変えるだけで散歩が楽しくなることを、熊谷さんは教えてくれた。自宅近くの公園や寺社、河川敷を歩くときはもちろん、高いビル下には緑が多いので、仕事中のリフレッシュにも使える技だ。
そんな熊谷さんが理事長をつとめる日本アロマ環境協会は、2023年2月に、新拠点「AEAJグリーンテラス」をオープンする。場所は明治神宮、代々木公園にほど近い神宮前、建築家の隈研吾氏とともに築いた木造建築だ。
1階は精油を試したり、ハーブティをいただけるラウンジとして一般に開放する。散歩の帰り道に立ち寄って、さらに深い香りの世界に、触れてみてはいかがだろうか。
取材・文・撮影=小越建典(ソルバ!)