印刷会社が原点を求めて開いた3階建ての複合施設
『ふげん社』があるのは目黒通りに面した3階建ての建物。元は家具屋だった建物を1階をブックカフェ、2階には写真などを印刷できるラボ、3階がギャラリーという複合施設として改装。ギャラリーで写真展が行われるほか、落語会やトークイベントなど様々なイベントも開かれている。
母体となっているのは昭和25(1950)年創業の「渡辺美術印刷」で、写真集など美術印刷を得意とする印刷会社だ。
現在代表取締役を務める渡辺薫さんは約30年前に父から会社を受け継ぎ、2代目経営者として会社を導いてきた。
『ふげん社』という名前でコミュニケーションギャラリーを始めたのは2014年11月の中央区築地でのこと。築地の再開発に伴って、2019年に今の場所に移転してきた。
印刷会社の経営をしてきた渡辺さんが、なぜギャラリーとカフェを合わせたような施設を作ったのだろうか。
本業である印刷会社の仕事は「ひとつひとつオーダーメード」と渡辺さんはいう。書籍は業界全体で毎日200冊以上の新刊が発売され、同時にデジタル化によって縮小傾向にもある。
次から次へと新しいものが生まれるということは、せっかく手をかけて作ったものが、どんどん捨てられてしまうということでもある。ものづくりを担うものとして、そのことに苦しさを感じてきたのだと渡辺さんはいう。
さらに渡辺さんが経営者として会社を率いてきた約30年間は、バブル崩壊、リーマンショックに東日本大震災、そしてコロナ禍と未曾有の事態が繰り返し起こり、今も続いている。
迷ったら振り出しに。よく言われることだが、渡辺さんもそう考えた。本を主に手がける印刷会社としての原点とはなにか。
「作る側、読者にも会える、最初から最後までが見える原点にもう一度行きたいと思ったんです」
写真家や著者など作り手たち、出版会社、その間でものを形にする印刷会社など、信頼関係を持って仕事をする人たちが集い、出会うスペースがなくてはと考えて『ふげん社』は誕生した。
ブックカフェには約5000冊の本と自慢の自家焙煎コーヒー
1階のブックカフェには常時5000冊ほどの本が置かれ、もちろん販売もしている。飲み物などを注文さえすれば、席に座って本を読むこともできる。
壁面にずらりと並ぶ本のセレクトは渡辺さん自身によるもの。お気に入りを聞くと「全部お気に入りよ」という答え。自分が楽しんで来た本の中でも、将来にわたって普遍的に残ると思うものを揃えているという。
絵本のコーナーもあって、子供用の椅子も置いているため、親子連れが一緒に本を読んでいる姿もしょっちゅう見られるのだとか。
「気持ちがざわざわしているときでも、本のある場所に座っていると少し休まるじゃない?」と渡辺さん。読書が好きな気持ちが伝わってきた。
『ふげん社』が自慢にしているのはコーヒーだ。かつて表参道にあった伝説の店「大坊珈琲店」の大坊勝次さんに指導された焙煎師が、埼玉の本社で手回しの焙煎機を使って焙煎しているものだ。抽出方法も、ネルドリップを使って、細く、細く湯を注ぐ大坊さん譲りのスタイルだ。
実は渡辺さんは大坊珈琲店の常連だった。その縁でスタッフが焙煎や淹れ方の指導をしてもらうことになった。大坊さんから合格点がもらえるようになったそうだ。大坊さんがコーヒーを淹れるイベントも年に2度『ふげん社』で行われている。
ケーキは、吉祥寺にある『Patisserie A.K Labo(パティスリーエーケーラボ)』のものが常時4種類ほど。こちらも渡辺さんの人脈からたどり着いたパティシエによるもので、ケーキを楽しみに訪れる人も多い。
あまねく出会いや縁もコーヒー1杯から
『ふげん社』の名前は普賢菩薩という仏の名前から付けている。普賢の“普”にはあまねくという意味があり、どんな人も集える場所にしたいという気持ちがこもる。
ただ、最初は、『ふげん社』というスペースから何かが生みだされるとは考えていたわけではなかったそう。しかし、ギャラリーでは、作家が在廊することも多い。ファンが作家と会うこともあれば、ブックカフェで本と出会う人もいるし、渡辺さん自身もかつての縁が復活したそうだ。
ギャラリーというと、行き慣れない人には足を踏み入れにくい場所だろう。しかし、『ふげん社』ならまずはコーヒー1杯をとりかかりにしてくれる。散歩のついでに立ち寄るだけで思わぬ縁が生まれるかもしれない。
取材・撮影・文=野崎さおり