ルーツは“手芸品の殿堂”とよばれた食堂部にあり
池袋駅西口のシンボル・東京芸術劇場、そこに面した劇場通りを挟んですぐに立地するのが『キッチンABC 池袋西口店』だ。池袋東口、南大塚、江古田にも店舗を構えるが、そのルーツといえるのが、池袋東口で長年“手芸品の殿堂”として親しまれた「キンカ堂」の食堂部という。
「当時、食堂部の取締役だった祖父が独立し『ABC』を立ち上げたそうです。その後、時代の流れとともに食堂部が縮小されることとなり、当時のメンバーがABCに再集結していったと聞いています」。
こう話してくれたのは、創業者の孫であり店の広報を担う稲田安希さん。総括店長兼総料理長の中野正之さんは、創業に加わったシェフの息子さんだ。創業者の想いが、次の世代にしっかりと受け継がれているのを頼もしく感じる。
白と茶色で統一されたこぎれいな店内には、メインとなるテーブル席のほか、より落ち着いて過ごせるボックス席、一人でも気軽に利用できるカウンター席があり、いろいろなシチュエーションで使い分けができそうだ。
店の2大名物メニューを一度に味わう
ポーク焼肉や手ごねハンバーグ、オムライスなど定番の洋食とともに店を盛り上げているのは、オリエンタルライスや黒カレーなどのオリジナルメニューだ。
せっかくなので、この2つのメニューを一皿に盛りつけたオリエンタルライス&黒カレーに人気のチキン南蛮タルタルを付けた、ちょっと……いや、かなり欲ばりなセットメニュー1000円を注文することに。
まず驚いたのは、注文してから目の前に出されるまでのその早さ。「混雑時、外でお待ち頂くようなときには入店前に注文をうかがって、着席とほぼ同じタイミングでできたての料理をお出しするようにしています」と稲田さん。ランチ時など限られた時間で来店するお客さんにとっては、とてもありがたい心遣いだ。
まだ“エスニック”ということばがない時代、2代目を継いだ稲田さんの父が1985年に考案、腹ぺこの立教大生やサラリーマンたちの胃袋を満たし、人気ナンバーワンに君臨するのがオリエンタルライスだ。
ラードで炒めた豚バラに玉ねぎを加え、秘伝のにんにくダレを投入、彩りのニラを加えたらシャキシャキ感を残して火を止め、ご飯の上にかけたらできあがり。立ち上るにんにくの香りがたまらない。香ばしく焼かれた豚肉、玉ねぎとニラの異なる食感も楽しく、タレが染みたごはんがまたおいしくて、箸を持つ手が止まらない。
“漆黒”ということばが似つかわしいほどの黒さとつややかさが自慢の「黒カレー」は、2000年からメニューに加わった実にインパクトのある名物メニューだ。「食用の竹炭を使用していますが、それだけでは真っ黒にはならず緑っぽい肝のような色になってしまうので、いくつかのスパイスを足して黒く仕上がるよう工夫しています」と中野さん。味も、時代のニーズに合わせて変化、進化させているという。
口に運んでみると、辛い! というほどではないが想像以上にスパイシーで奥深い味がする。食べ進むうちに額にじわじわと汗が出て、体中にパワーがみなぎってくるよう。黄身を崩して絡めるとまろやかさがプラスされ、また違った味わいが楽しめる。
味噌汁もサイドメニューも主役級!
定食などに付いてくる味噌汁は具が少なくて当たり前。豚汁などにランクアップするには追加料金が必要。そんな風に思っていると衝撃を受けるのが、『キッチンABC』の味噌汁だ。メニュー表には味噌汁と書かれているが、出てきたそれは具だくさんの豚汁だ。
具材は変わるときもあるが、この日は豚バラ、豆腐、ニンジン、ゴボウ、大根、油揚げ、シイタケ、長ネギの8種類。「いい出汁が出るシイタケの石突きなど、使えるところ全てを使っています。ある意味、あら汁に近いイメージですね」と中野さん。
ひと口飲んでみる。具がたっぷりなのももちろんうれしいが、汁そのものがうまい! 食材から出たいろいろなエキスが旨味となって溶け出した一杯は、もはや脇役ではない主役級の一杯であった。
もう一つの主役級の一品が、お客さんの要望に応えてグランドメニューに昇格したチキン南蛮タルタルだ。かつて甘酢ダレの味が決まらず昼夜試行錯誤を繰り返していたとき、チキン南蛮の本場・宮崎出身の漫画家の作品に出合い、そこからヒントを得て味を完成させたのだとか。
「味に妥協なく、本当においしいと思う料理を届けたい」という想いが詰まったたこの一皿、甘さと酸味のバランスがちょうどよく、マイルドなタルタルソースがおいしさを後押し。千切りキャベツが口中をさっぱりリセットしてくれるので、チキンを口に運ぶたびに感動がある。
お腹も心も満たされる街の洋食屋であり続けたい
お話をうかがっていて感じたのは、「目の前のお客さまを笑顔にしたい」という想い。よりよくするための変化やお客さんから届く声への対応も早い。それらは多店舗を展開するチェーン店にはできない、『キッチンABC』ならではの軽やかさであり強みだろう。
もっと店を増やしてほしいとの要望もあるそうだが、「当面は社長が自転車で各店舗を見て回れる、きちんと目の届く範囲でやっていきます。飲食店として大きすぎず小さすぎず。いろいろな面でそれがいい」と中野さん。
先般、原材料の高騰により苦渋の選択で価格の見直しを余儀なくされたが、お客さんからは「価格を改定せず別のところにしわ寄せがくるより、値上げしてもらった方がいい」「根強いABCファンは変わらず通い続けます」など、温かな声が多数寄せられたという。
創業から半世紀、目に見えるところ、見えないところで努力を重ね蓄積してきた歴史と味は、訪れる人を裏切らない。愛される街の洋食屋さんは、これからもこの街とともに歩んでいく。
構成=フリート 取材・文・撮影=池田実香