皆々、息災であるか!前田又左衛門利家である。此度の戦国がたりは久方ぶりの史跡探訪である!!此度訪れたは今、大いに盛り上がっておる関ヶ原古戦場じゃ!大河ドラマ『どうする家康』にてこの地で起こった大戦が描かれている。世界三大古戦場にも数えられ、世界に轟くこの地は訪れたものを楽しませるよう様々に整備がなされておる。早速紹介致そうではないか!
皆々、息災であるか前田又左衛門利家である。大河ドラマ『どうする家康』にて熱き展開が繰り広げられた小牧長久手の戦い。徳川四天王の活躍が確と描かれておって、徳川家が戦国大名として円熟してきた様子は見応えがあるわな。そこで此度は物語の舞台である長久手古戦場へと赴いた!桶狭間、長篠に続く史跡探訪第三弾である!!

岩村城下町を歩く!

最寄駅は明智鉄道岩村駅。今の世にいう岐阜県じゃ。

5分ほど歩くと見えて参るのは岩村城下町である!

ここは江戸時代に栄え、武家屋敷や商家も現存しておる!

豪商、木村家の屋敷には藩主を招いたとされる格式の高い客間と茶室があって、なかに入ることも叶うぞ!

木村家の屋敷、客間。
木村家の屋敷、客間。
こちらは茶室じゃ。
こちらは茶室じゃ。

食べ歩きにも適しておって、岐阜名物の五平餅や、

『あまから』殿の五平餅、胡桃が効いておって実に美味である。
『あまから』殿の五平餅、胡桃が効いておって実に美味である。

江戸時代から続く老舗の洋菓子店もあるでな、食も歴史も共に楽しみながら城下町を進むも一興であろう!

長崎よりかすてらを伝えたことでも名高い『松浦軒』殿。暑かったで水饅頭をいただいたぞ!
長崎よりかすてらを伝えたことでも名高い『松浦軒』殿。暑かったで水饅頭をいただいたぞ!

他にも戦国時代に我が同輩・河尻秀隆殿が築いたとされる用水路があったり、町全体が曲げられて枡形虎口のようになっておったりと、他では見られぬ特徴もあるで確と見ていくが良い。

いざ城内へ

城下町を抜けるといよいよ岩村城である。

初めに見えるはこの太鼓櫓である!

この櫓は城下の者達に時を知らせるためのものであった。

ここには岩村歴史資料館もあって、戦国にまつわる展示はもちろん東濃は化石が多く取れる場所ゆえに古代にまつわる展示もあるでな、きっと楽しめるであろう!!

これよりは山を登って参るで、登城する者は気を引き締めて参ろうではないか。

じゃが、見ての通り登山道は整備がなされておって実に歩きやすい。

美しい自然と時折ある城の解説の案内板を楽しみながら進むがよかろう。

山道を歩いておると石垣が突如現れる。それが一の門跡じゃ!

ここまでの道中に幾つかの門を構えてはおったのじゃが、ここからが岩村城の中心部分となって参る。

木々と石垣の組み合わせは実に美しいぞ。
木々と石垣の組み合わせは実に美しいぞ。

苔むした石垣が山の中突如現れる様はやはり圧巻で、山城巡りの醍醐味であるでな、皆にも体験して欲しい限りじゃ。

ここからは多くの遺構を見ることができるで、足を止めながらゆるりと城を巡って参ろう。

少し進むと見えてくるのが霧ヶ井である。

山城は敵に囲まれ籠城戦をするために水源の確保として多くの井戸が掘られておって、岩村城にも幾つかの井戸の跡が残っておる。

じゃがこの井戸は岩村城が敵に囲まれたおりに井戸に蛇の骨を投げ入れたらば、たちまち深く霧がかかり、敵から城を隠して何を逃れたという逸話があるのじゃ。

故に霧ヶ井と呼ばれておるようじゃな。

逸話の真偽はさておくとして、この辺りは濃霧が発生しやすい故に岩村城は別名「霧ヶ城」とも呼ばれておるのじゃ。

此度は天気も良かったのじゃが、以前訪れた時には霧が深くかかり、幻想的な趣を感じることができた。秋の早めの時間に行くと特に霧が起こりやすいようだで、狙って行ってみるも良いじゃろう。

霧の深い岩村城は、朧げで幻想的な趣である。
霧の深い岩村城は、朧げで幻想的な趣である。

じゃが、霧の岩村城。

山城の醍醐味、山頂からの景色は見ること叶わんかった。

濃霧の本丸からの景色である。眺望は楽しめぬがこれもまた一興であろう。
濃霧の本丸からの景色である。眺望は楽しめぬがこれもまた一興であろう。

さて、さらに進むと見えてきたのは岩村城一番の見どころ、「六段壁」である!!

その名の通り六段に築かれた石垣が美しく残っておる。

築城技術がまだ円熟しておらず、高い石垣を築くと崩れやすくなってしまうために、低い石垣を重ねて堅牢さと頑強さを両立させたというわけじゃ。

山城の石垣は雨や風の影響を受けやすく、台風や大雨で崩れてしまうことがしばしばあって美しい状態で残すのが難しい。

そんな中でも岩村城の六段壁は誠に美しく残っておるで、皆に是非とも一目見てほしいのじゃ。

時を経て風化し崩れかけた石垣にもまた魅力は大いにあるんじゃがな!!

して、この六段壁を抜けるといよいよ本丸である!!

山を登りたどり着いた本丸からの景色はやはり格別である。

景色を楽しみながら息を整えて、来たる下山の時に向けて準備を致すが良い!

山城は下りの方が難関である。注意して進むが良い。
山城は下りの方が難関である。注意して進むが良い。

岩村城の歴史

岩村城は戦国時代において織田家領土の最東端であって、武田家の領土と接する非常に重要な城であった。

信長様の五男・御坊丸様が入られ、信長様の叔母上・お艶の方様が実質的な城主となっておったのじゃが、武田信玄による西上作戦によって岩村城も武田の猛攻にあう。

耐えかねたお艶の方様は民の命を守ることを条件に開城し、お艶の方様と御坊丸様は人質として武田家に行ってしまわれたのじゃ。

それどころかお艶の方様は武田の猛将、秋山虎繁殿に嫁ぐこととなったのじゃ。

それを知った信長様は無論大激怒される。側から見たらお艶の方様が城と御坊丸様を売ったように見えるでその怒りは必定であろう。

後に岩村城を取り返した後には秋山虎繁殿とお艶の方様を磔(はりつけ)にして処されておって、その怒りが現れておる。

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取り返した後には河尻秀隆殿が城主となって改修し、今の岩村城の遺構の多くはこの時に築かれたものである。

その後の武田征伐では信長様が明智光秀殿らとともに入城され、武田家滅亡の報を受けたのもこの地であった!

信長様にとっては良くも悪くも思い出深き城ではなかろうか。

その後は森家が治め、小牧長久手の戦いでは敵軍を退けた。その後は森家が移封されたことで代わりに田丸家が入ったのじゃが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで改易されてしもうた。

その後は松平家が入って岩村藩となった。江戸時代は平和になったことと築城技術が進んだことで、生活のしやすい平城が好まれた。じゃが、河尻秀隆殿が城や城下の整備を確と行ったことで山の中でも生活がしやすかったため使われ続けたのじゃ。

標高717mに建つ岩村城は「江戸時代に居城として使われた中で最も高い場所にある城」となり、故に日本三大山城の一つに数えられておるのじゃ!

日本三大山城の他の二城は、江戸時代の居城として日本一の比高を持つ高取城と、現存天守として最も高くにある備中松山城である。

因みに誠に日ノ本で1番高い城、贄川城なんかは1700mを超えておる。

挑戦してみたい気もするが気後れするのう。

終いに

久方ぶりの史跡探訪は如何であったかな!!

良き城であることが伝わったかのう。

先にも申したが岩村城は高くにある山城であれど、かなり登りやすい類の城である。

じゃが、今の時期は暑いゆえ涼しくなる秋口に参るのがよかろう!!

無論、動きやすいが肌を露出せん服装と履き慣れた靴も忘れるでないぞ!!熊やら蜂やらの危険もあるでな!準備は怠らぬように。

 

名古屋城や大阪や姫路といった城は好きじゃが、山城に参陣致すのは中々勇気がいるという者には是非とも挑戦してみてほしい。

きっと城の新たな魅力を見つけられるであろう!

 

此度は『散歩の達人』に似合いの話を記して参ったが、歴史のおもしろき話もしておるで次の戦国がたりも楽しみに待っておってな!

それではまた会おう。

さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)