トンネルの中から次のトンネルを眺める絶景
壁面を眺めながら進むと、カーブした出口の先にはさらにトンネルの口が開けていました。おお、ここは連続トンネル区間なのか。
トンネルの中から見る、次のトンネル。双方のトンネルが向かい合い、口を開けている。良い、非常に良い。
闇からおもての世界が現れ、すかさずまた闇に吸い込まれる。その一連の流れが美しく感じるのです。
ここは道路として現役のトンネルですが、目と心は既に廃線跡として認識しているので、私が好きな“廃トンネル”の姿が目の前にありました。
次のトンネルはおそらく第二愛宕トンネルです。確証を得られなかったのは、坑口にある標識が、吹き付けられたコンクリートで半分埋もれて、文字が判別できないからです。
ということは、コンクリートを吹き付けたのは道路に転用されてからでしょうか。長野原線の時代は、標識をしっかりと掲示していたはずです。廃止後に生活道路へ転用した際、補修のためにコンクリートを吹き付けたのだと思います。
トンネルからトンネルへ。わずかな明かり区間は深い森に囲まれ、左は石積みの擁壁、右は急斜面。ここが道路として使われていなかったら、トンネルが閉鎖し、あるいは中が閉塞されていたら、容易に足を踏み入れることはできなかった空間です。
トンネルの先は深い森の谷間と橋梁
第二愛宕トンネルは真っ暗です。中でカーブしているだけでなく、第一愛宕トンネルと比べて距離が長く、懐中電灯を灯して進みます。この先には住宅地と聞いていましたが、真っ暗で狭いトンネルを毎日利用するのは神経使うだろうなと感じずにはいられません。
やがてトンネルを出ると目の前は谷間になっており、短い橋がかかっています。周りは相変わらずの森の中ですが、左手の木立の隙間からは国道の朱色の橋梁が望め、こちらとの距離は意外と近いことが分かります。
この谷間の箇所も生活道路として使われていなかったら、橋梁も撤去されていたことでしょう。
薄暗い谷の先は一気に明るく、住宅の姿も確認できます。しばらく遠くを見つめて振り返ると、日陰の森にひっそりと口を開ける第二愛宕トンネルの姿。橋を挟んでこちら側とあちら側の世界がまるっきり違う。
こういう対比を見られるのも、廃線跡の醍醐味の一つ。
怖いと感じる方もいるかもしれませんが、感覚は人それぞれですね。
3本目の橋梁は長野原線の古いプレートガーダ
廃線跡は住宅地を抜けます。道は舗装されたままで、どこにでもある生活道路。それが廃線跡だと確信できるのは地図や資料、“鉄道の曲線らしい緩やかなカーブ”です。
廃線跡巡りを趣味や生き甲斐とする者には分かる嗅覚が、この道は線路であったと確信させるのです。その嗅覚とは何ぞやですが、それは経験の蓄積です。
たまに外れますが、今回は間違いありません。
道は、ケヤキと小屋が好対照を見せる交差点の先もまっすぐ。と、またもや小さな橋梁に出会いました。つい癖で橋の脇から桁部分を覗き見します。欄干とパイプでカスタマイズされていますが、リベット打ちの鋼材と鋼板が確認できました。前編の白砂川橋梁と同じ上路式プレートガーダです。道路用の桁にしては幅が狭く、長野原線時代の遺構とみて間違いないでしょう。
気になるのは縦の補強である「補鋼材」が“J”字をしていること。
明治時代のイギリス製や改良型、一部の私鉄のプレートガーダは、補鋼材の端部がJ字のように90度折れ曲がるのが特徴で、この桁はおそらくですが明治時代の製造。
そして、1945年の建設時にどこからか転用されたものと思われます。斜面はちょっとした崖なので降りられず、銘板は確認できませんでした。
思いかけず古い遺構に出会えて心が躍ります。橋梁の先は遠くまで見渡せるほどまっすぐで、目立った遺構はありません。この先、まとまった遺構に出会えるのは太子駅跡となります。
次回、太子駅跡の探索をお伝えし、長野原線を締めくくります。
取材・文・撮影=吉永陽一