焼き肉の昭和の歩み
よく知られているように、歴史的に見れば、在日コリアンの集住地であったケースが典型的です。私もずいぶん、その方々の半生や、戦後、高度成長期、バブル期ごろの歩みを聞かせてもらいました(よろしければ拙著「横丁の戦後史」をお読みください。以上、宣伝)。
多くの焼き肉店が生まれたのにはわけがあります。昭和のころ、彼らは普通に就職したくても不利な状況におかれており、「焼き肉」は、彼らを救う数少ないなりわいのひとつだったのです。カルビをロースターで焼いて、つけダレに浸してから食べるスタイルは、彼らが開発し、支持を獲得したものでした。
この焼き肉、戦後しばらくのうちは「朝鮮料理」と呼ばれていました。その時代には、店も客もみんな同郷人である場合が多く、たとえばあそこは済州島の郷土料理を出すよ、とか、こっちは半島北部の料理を出すんだよ、といった具合にメニューも店ごとに地域色がありました。お客たちはそれを食べて、遠い故郷を懐かしんだのです。
一例をいうなら、昭和の頃にバラエティ豊かな店が揃っていたのが、上野です。全国各地で暮らしていた在日コリアン第一世代は、上野でふるさとの味を確かめてから、夜行列車にのって、またそれぞれの土地へ戻っていきました。上野はエスニック・マイノリティにとってもターミナルであり、第二のふるさとでもあったように私は思います。その特性は今も引き続いていますね。
一気に大衆化し、完成形になっていった
そうして昭和も終わりごろ、バブル経済が湧きたつころになると、「焼き肉」の名は不動のものとなり、この頃、繁華街の焼き肉店も爆発的に増えました。反比例するように郷土料理は減っていき、どこへいっても似たメニュー構成となっていったのです。理由は日本人客がメインの客層になったからです。
「どこの店のメニューも似ている」、ということ、私は一概に残念なことだとはいえないと思っています。むしろ、焼き肉という一つの民族料理のフォーマットが成熟して、一気に大衆化し、完成形になったように思うのです。各店は、他店と同じ定番メニューではあっても、自分の店独自の味や違いを追求しています。同じ土俵なだけにむしろ、シビアな競争になったともいえそうです。いまや高級店から大衆チェーンまで、TPOごとに使い分けられるほど多様性も獲得していますよね。
そのなかで私が好みなのはやっぱり、炭火より、ロースターで焼くスタイルのお店。タレなんかもだいぶ甘くて、白衣を着た静かなおじちゃんと、ホールを取り仕切る元気なオモニがいるようなお店に惹かれてしまいます。
酒を飲まない日には、大ライスをとって、タレをたっぷりつけたカルビをのっけて、ほっぺがパンパンになるほど米と肉をつめこんで、無言でもぐもぐするときのあの至福。たまりません。あるいは、一杯やるときなら、すでに味噌味がちゃんとつけてあるミノに、さらにコチュジャンをぬりつけてシャリシャリとほおばり、口中の臓物の旨味と塩気をウーロンハイですっきり流し込む喜び――。おおお。こう書いてるだけでも、食いてえ、となりますね。
いい焼き肉屋さんの見分け方
さて、いい焼き肉屋さんの見分け方ってご存じですか。
極私的判断法としては、まず分かりやすいサインは、店外に古びた食品サンプルのショーケースがあるところ。昔からスタイルを変えなくても、地元の人に支持され続けているなによりの証拠に思えるのです。
あと、こんな場面を見られたなら、そこはもう、ぜったい間違いありません。
ここで一つお願いです。
頭のなかでいっとき、焼き肉屋さんの並んでいる、狭く、古い路地へ私と同行してもらっていいでしょうか――。
さあ行きますよ。
ご覧ください、あの暗がりの奥、ほら、食品サンプルが並んでいるのが見えてきました。
さっそく引き戸をあけましょう。ガラガラ~
奥のあいたテーブル席を見てください。
一生懸命鉛筆を走らして、この店の子どもが、宿題をやってるじゃあないですか。
文=フリート横田 ※写真はイメージです