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鈴木伸一(すずきしんいち)
昭和8年(1933)、長崎県生まれ。中学生のころから『漫画少年』に投稿し入選多数。1955年に上京、トキワ荘に入居。56年「おとぎプロ」に入社、アニメーターとなる。63年「スタジオゼロ」を立ち上げる。現在、東京工芸大学杉並アニメーションミュージアム館長。

『漫画少年』への投稿がいまでもつながっている

──鈴木さんがトキワ荘に住み始めたのは1955年のことですが、きっかけは何だったのでしょう。
鈴木

寺田ヒロオさんに紹介されたんです。僕は長崎の生まれで、中村伊助先生というマンガ家を頼って上京して、しばらく中村家に居候していたんですね。そこへ寺さんから、トキワ荘の部屋が空いたから来ないか、とハガキをもらって。僕は『漫画少年』という雑誌に漫画を投稿していたんだけど、寺さんをはじめ、トキワ荘にいた藤本氏や、石森氏赤塚氏もみんな投稿していたから、互いに名前を知ってるわけですよ。住所も載っていましたからね。

南長崎公園にあるモニュメント。鈴木さんがモデルとなった「小池さん」は、「オバケのQ太郎」のキャラクター。
南長崎公園にあるモニュメント。鈴木さんがモデルとなった「小池さん」は、「オバケのQ太郎」のキャラクター。
──『漫画少年』には、いつごろから投稿していたんですか。
鈴木

中学生のころから。僕は戦前、父の仕事の都合で満州(中国東北部)に行っててね。戦後、引き揚げて長崎に帰ってきたんだけど、おふくろはその疲れで病気になって、僕が看病していた。だから、ほとんど中学へはいかなかったんです。でも、おふくろは僕がマンガ好きなのを知って『漫画少年』『少年クラブ』『子供まんが新聞』を買ってくれてた。それがとてもありがたかったし、今につながってるんです。

4畳半一間の自分の城

──トキワ荘の2階での暮らしはどんなものでしたか。
鈴木

部屋は4畳半でね。中村先生から譲ってもらった子供用の机と、小さな火鉢くらいしかなくてがらんとしてた。いきなりマンガで食べていけないから、昼は水道橋のデザイン会社で働いて、夜にマンガを描いてました。冬は寒くてね。外から帰ってくると熱いものを飲みたいから、藤本氏の部屋に行って、お茶もらったりして。

──共同の調理場があったようですが、自炊したりしましたか。
鈴木

僕は料理ができなかったからね。水道は使ってもいいけど、ガスは有料だったし、お金がない。藤本氏なんか、ごはんの炊き方さえわからなくて百科事典かなにかで調べて炊いてました。電気釜なんてないですから。石森氏もまったく料理できなかったな。赤塚氏はけっこう器用で、ごはん炊いたり、キャベツ刻んだり。寺さんは僕らよりすこし年上だったから、いろいろつくってました。

共同の炊事場。鈴木さんはあまり使わなかったが、写真奥の流しでは赤塚不二夫さんや石森章太郎さんが、風呂がわりに水浴びしていたという。(撮影=向さすけ、複写=鴇田康則)
共同の炊事場。鈴木さんはあまり使わなかったが、写真奥の流しでは赤塚不二夫さんや石森章太郎さんが、風呂がわりに水浴びしていたという。(撮影=向さすけ、複写=鴇田康則)
──みんなで、お酒飲んだりは?
鈴木

しましたよ。場所は寺さんの部屋が多かったかな。サイダーに焼酎を入れた「チューダー」っていうのを作ってね。飲んだら騒ぐから、下の1階の住人から、ほうきでつつかれたよね。1階には誰も行ったことなかったけど、たぶんサラリーマンの人たちが住んでいたんじゃないでしょうか。

──お酒飲みながらマンガ論をたたかわせたり?
鈴木

マンガ論議は……しなかったな。当時、トキワ荘の住人が中心で新漫画党というのをつくって、月に一回、誰かの部屋で会合を開いていたんだけど、そのときもマンガの話はそんなにしなくて、映画とか、読んだ本の話をしていました。夜になって、おなかがすいてくると『松葉』に出前を頼むんです。注文をとるのは、だいたい安孫子氏の役割でね。電話がないから店まで伝えにいく。このラーメンは、非常においしかった。あの素朴な醤油ラーメンが、おいしかったねえ。

──いままでに、さんざん聞かれたとは思うのですが……、ラーメンはお好きですか?
鈴木

僕はね、ラーメンだけじゃなくて麺類が好き。うどんもそばもパスタも好きですよ。そういう“ひも”みたいなものが好き。ラーメンだと、昔ながらの醤油ラーメンがいいね。

満州で過ごした少年時代にはじまり、マンガとの出会い、上京して暮らしたトキワ荘のこと、アニメーションを仕事として選んだこと。日本アニメーションの黎明期を支えた足跡をたどる。『アニメが世界をつなぐ』(岩波ジュニア文庫)
満州で過ごした少年時代にはじまり、マンガとの出会い、上京して暮らしたトキワ荘のこと、アニメーションを仕事として選んだこと。日本アニメーションの黎明期を支えた足跡をたどる。『アニメが世界をつなぐ』(岩波ジュニア文庫)
脚注

寺田ヒロオさん
昭和6年(1931)、新潟県生まれ。1953年上京、手塚治虫に続いてトキワ荘に入居、リーダー的存在だった。『スポーツマン金太郎』『背番号0』など。

『漫画少年』
1947~55年まで発行されていたマンガ雑誌。多くのマンガ家を世に送りだした。手塚治虫が投稿作品の講評を担当。

藤本氏
藤本弘。昭和8年(1933)、富山県高岡市生まれ。安孫子素雄と共に藤子不二雄として合作を始める。コンビ解消後は藤子・F・不二雄と名乗る。『パーマン』『キテレツ大百科』など。

石森氏
石森章太郎。昭和13年(1938)、宮城県生まれ。高校在学中にデビュー。1985年に「石ノ森章太郎」に改名。『佐武と市捕物控』『サイボーグ009』など。

赤塚氏
赤塚不二夫。昭和10年(1935)、満州生まれ。1953年上京、56年トキワ荘入居。ギャグ漫画の王様といわれる。『おそ松くん』『天才バカボン』など。

新漫画党
トキワ荘に住んでいたマンガ家たちが結成したグループ。寺田ヒロオを総裁とし、藤子不二雄、鈴木伸一、石森章太郎、赤塚不二夫ほかが参加。

『松葉』
トキワ荘の裏口階段を下りてすぐのところにあった中華料理店。現在も営業中。

安孫子氏
安孫子素雄。昭和9年(1934)、富山県氷見市生まれ。藤子不二雄のコンビ解消後は藤子不二雄Ⓐ。『まんが道』『怪物くん』『笑ゥせぇるすまん』など。

取材・文=屋敷直子 撮影=加藤昌人
『散歩の達人』2020年5月号に全文掲載