そんな、にわか知識を噛みしめながら、橋の下を流れる多摩川と支流の野川、沈みかけの太陽と青空を見ながら、なぜ、今の今まで二子橋を渡ってこなかったのだろう、と、自らの無関心、好奇心の欠如に唖然としてしているうちに、橋の長さは440メートル、
すでにわたしが立っている所は、川崎市高津区だった。二子新地駅は、すぐそこである。目の前の横断歩道を渡り「大山街道」経由で、1.6キロ、徒歩20分~30分ほど散策すると、溝の口へ行ける。
横断歩道を渡って右手、正面の植え込みに 旧二子橋の親柱と「二子の渡し」の案内版がある。親柱は、1978年(昭和53)、橋が大改修されたときに撤去され、移設、保存されたものだ。
旧二子橋の完成は1925年(大正14)、それまで、街道を行く人々は、ここ「二子の渡し」で、多摩川を渡った。
二子の渡しは、江戸中期から大正時代(1925年)まであった。大山おおやま詣りと観光を兼ねた参詣客や、相模地方の産物を江戸に送る通り道として利用された。
ところで、「大山おおやま詣り」って? 検索したことを要約すると、
神奈川県伊勢原市にある大山への参詣(さんけい)のこと。大山を信仰の対象として行われていた参拝の風習。かつては、大山街道として有名で江戸赤阪御門を起点とし、三軒茶屋、二子、溝の口、厚木を経て大山詣での道として栄えていた。
なるほど。橋は渡ってみるものである。少し賢くなったようで嬉しい。
参考:日本遺産ポータルサイト
「江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで「大山詣り」~」
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/meguri/isehara/
「川崎歴史ガイド 大山街道ルートpdf」
https://www.kbz.or.jp/public/historyguide/pdf/history-guide-01.pdf
「AERA dot.いまとはまるで違う56年前の「二子玉川」 世田谷南西部を支えた路面電車『玉電』と『砧線』」
https://dot.asahi.com/articles/-/34694?page=3