楠見 清(達人)の記事一覧

楠見 清
達人
楠見 清
美術評論家
1963年生まれ。美術評論家、東京都立大学准教授。公共彫刻の調査からいつの間にか街歩き愛好家に。著書『ロックの美術館』、『もにゅキャラ巡礼』(南信長との共著)ほか。インスタグラムでも「無言板」の写真コレクションを公開中。
noimage
花言葉とともに見る美しい四季折々の無言板
まち歩きが好きな人なら公園や花壇の花に季節の移ろいを感じる機会も多いはずです。とくにこれからの季節、まちの至るところで色とりどりの花が咲き始めると思わずカメラのレンズを向けたくなります。そして、今回ご紹介するのは花と無言板の偶然の出合い。花言葉を読み解きながら花を見ていくと、言葉を失った無言板との組み合わせは何とも対照的なツー・ショットのように思えてきます。
noimage
文字を消したり書いたり《ストリート・テーピング術》選手権
3年ほど前、バナナを銀色のダクトテープで壁に留めただけのアート作品がおよそ1300万円で落札されたというニュースが話題を呼びました。作者はイタリアの現代美術家マウリツィオ・カテラン。作品のタイトルは《コメディアン》。材料はバナナとテープですから原価もたかが知れたものではと思いますが、彼の作風として定評のあるダクトテープで、アンディ・ウォーホルの作品を思わせるバナナをやっつけてみせたというこの瞬間芸のような作品は、現代美術の父マルセル・デュシャンの便器のレディメイド(既製品を使ったオブジェ作品)《泉》と同様にコンセプトとして高く評価されたのです。テープで貼っただけでバナナがなぜそんな高額な作品になるのか、まだ腑に落ちない方も多いでしょうが、ここからは街角のテーピングを観察しながら日常に潜むアートを発掘していきたいと思います。
noimage
看板は消え去り、フレームは語り出す
文字の書かれた板がなくなって枠と支柱だけになってしまったものを〈エア看板〉と称してこれまで紹介しましたが、今回はその発展形として、残されたフレームが本来の用途とは別の何かを主張している事例です。額縁が中身の代わりに何かを語り出すとはいったいどういうことなのか、さっそく見てまいりましょう。
noimage
上を向いてまちを歩こう、〈高所無言板〉と空を見上げて
建物の屋上などに掲げられた大型広告看板のことをビルボードと言いますが、これビルの上にあるからじゃないんです。Billboardのbillは公に示された正式な文書のことで、何かを公衆の面前に掲示するからビルボード。もともとは建物外壁に取り付けられたポスター掲示板だったのが、19世紀に印刷技術の進歩とともに自立式の広告看板に進化して現在に至ったというわけです。ただ、そんなビルボードもここのところあまり元気がありません。それは広告不況というより広告媒体のデジタル化の波の影響です。スマートフォンが普及した今、まちなかにどんなに大きく派手な広告を掲げても人びとが手元のスマホばかり覗き込んでいては意味がありません。広告クライアントもデジタル媒体にどんどん乗り換えていきます。ビルの屋上の広告看板に空きが目立ち始めたのも当然のなりゆきなのかもしれません。昭和のアド・バルーンのようにビルボードもいずれなくなってしまうのでしょうか。遠くからも目立つ高い場所にあった看板がどんどん白くなっていく。天空に近い場所から地上を見守るこうした「無」の看板を〈高所無言板〉と名付けて探してみましょう。そのためにまず必要なのはスマホから目を上げて、上を向いて歩くこと。無言のビルボードはどうやらその存在に気付いた人たちをポジティブな気持ちにさせてくれる存在のようです。
noimage
落書きに埋もれて何言ってるかわからない〈過言板〉グランプリ
文字が消えてただの白い板になってしまった看板を「無言板」と称して日々観察しているなかで、落書きやステッカーで元の文字がかき消されて読めなくなってしまったものに出合うことがあります。雑多なノイズがひしめき合って許容量をオーバーしていることから、これを「過言板」と名付けてみたらどうだろうかと前々回のコラムでも紹介しました。英語で名付けるなら「Too-much-saying board」。しゃべりすぎでノイジーな看板。都会の喧騒や溢れる情報に飲み込まれて自己を失いそうな現代人を象徴しているといっても過言ではありません。
noimage
文字が消えても黄色い声で警告する〈スリム無言板〉コレクション
電柱や標識ポールなどに立てかけた縦長の看板を街中でよく見かけますが、これは海外にはない日本特有の看板のスタイルです。理由は単純で日本語はもともと文字を縦に書くからですが、よくある交通安全標語や地域啓発のあいさつスローガンなどをあらためて読むと決まって五七五調だったりと、なかなかのストリート・ポエムぶりに感心させられます。ちなみにこの手の細長の看板、業界ではスリム看板といわれているのですが、それに倣って文字の消えた短冊のようなものを〈スリム無言板〉と称して集めてみます。
noimage
地中化の波にいつか消えゆく〈電柱看板〉の生態
近年都市部を中心に電線を地下に移設する「電線類地中化」が進められています。別名「無電柱化」とも言われるように、電線を地下に埋めるということはすなわち電柱がなくなること。そのことで災害時に電柱が倒壊し電線が切れるリスクを減らすことができるわけですが、電柱がなくなるとまちの風景はどんなに様変わりすることでしょう。宮沢賢治の短編小説『夜のでんしんばしら』は、夜中に電信柱が「ドッテテドッテテ、ドッテテド」という掛け声とともに兵隊のように列をなして行進していくというファンタジーでした。いまではノスタルジックに思われる電柱のある風景も、この小説が書かれた大正時代にはモダンな都会から農村風景に延びてきた科学文明の糸のように思われていたはず。それがすっかり普及して日常風景となったいま、かつて近代の象徴だった電柱は地中化によって姿を消し始めたというわけです。
noimage
無言になっても一言多い〈蛇足看板〉が笑いを誘う
世の中にはなくてもいいのに勢い余って付け加えてしまうという物事があります。蛇足というやつですね。まあ、常識的には蛇の絵に足はいらないのですが、ごくまれに足を生やした蛇が竜に化けて天に昇っていくという奇跡も起こる……芸術とはそんな非常識な力のことだとも言えそうです。文字の消えた看板の上に何か別の張り紙がされているのは、無言板としてはまさに蛇足でありそこが笑いのツボなのですが、ひょっとして万にひとつくらいは竜に化けるものがあるかもしれない、そんな微かな期待も込めてこれらを〈蛇足看板〉と名付けて集めてみました。
noimage
笑う顔には福来る──街角の〈顔パレイドリア〉現象
少しばかり更新が早いですが、新年最初にふさわしいお題は福笑い。どういうわけか「顔」に見えてしまう街角の楽しい仲間たちをご紹介します。おっとその前に。一応学術的な講釈もしておきましょう。視覚的な刺激や聴覚的な刺激を自分のよく知っているパターンで認識しようとする現象を心理学用語で「パレイドリア現象」と言います(世間ではこれを「シミュラクラ現象」と呼ぶ人も多いのですがこれは日本だけの俗称なので今日からは正しく「パレイドリア現象」と覚えてください)。三つの点が逆三角形に並んでいるとなぜか目と口に見えてしまうのは「顔パレイドリア」。今回取り上げるのはまさにその現象です。
noimage
空っぽのガラスケース、〈水槽型〉無言板のある風景
町内会の掲示板といえばたいてい屋根付きのむき出し看板ですが、公民館や信用金庫の前でよく見かけるガラス張りのポスターケースは最強の屋外用掲示板といえるでしょう。雨風からポスターを守る防水性能はもちろん、錆びないステンレスのフレームに強化ガラス、夜間に内部を照らすLEDライトを内蔵するなど贅を尽くしたハイエンドな仕様はクルマにたとえるならスーパーカー。値段も桁が違うはずです。通常何かポスターが掲示されているときにはその造作に気を留めることもないのですが、写真のように掲示物がないと急にその存在感が際立って見えてくるから不思議です。
PAGE TOP トップへ PAGE TOP 目次へ