『学生街の喫茶店』(1972年)
その歌のモデルは実在しない?
歌詞のモデルになった店や学生街は、どこなのだろうか? 様々な噂が飛び交うようになる。そして共感はまた、多くの錯覚や妄想を生む。
「あの店のことを歌ったのでは?」
と、自分の記憶に結びつけてしまう。当時の東京で学生時代を過ごした人に話を聞けば、歌のモデルだと噂される店は何軒もあったが、その場所はすべて御茶ノ水だったという。
曲のヒットから長い時が過ぎた80年代に上京した筆者には、どうも、御茶ノ水が学生街というのがピンとこない。すでに中央大学の郊外移転が完了して「御茶ノ水=学生街」のイメージは薄れていた。
また、『学生街の喫茶店』の作詞をした山上路夫氏も、モデルとなった店や学生街はなく、誰もが体験した学生時代の思い出や風景を歌詞にした。と、語っている。
山上氏の経歴を調べてみると、青山学院第二経済学部中退。歌詞に自らの学生時代の思い出を投影するにしても、それは御茶ノ水ではなく表参道界隈だろう。あそこも通り沿いにある店からは、窓の外に美しい街路樹が見られただろうし。
この曲を歌ったガロの3人もまた、御茶ノ水とは縁遠い。唯一、大学生活を経験しているリーダー兼ギター担当の日高富明氏は、日本大学芸術学部の出身だ。彼が思い浮かべる学生街は、御茶ノ水ではなくて江古田のはず。
インターネットのない時代でも、その程度のことはすぐに調べがつく。それでも、当時は多くの者たちは御茶ノ水説を信じていた。なぜだろう?
『惜別の歌』(1944年)、『神田小唄』(1929年)
御茶ノ水が本当の意味で学生街だった明治~昭和初期
御茶ノ水駅から、駅近くにならぶ楽器店を横目に明大通りを南下する。間もなく右側に明治大学、左に日本大学理工学部が見えてくる。背中の方角、外堀の対岸には東京医科歯科大学と順天堂大学もある。大学がこれだけの数集まる場所は、日本でもそうはない。たしかに学生街。だけど、この眺めをそう呼ぶのは、やっぱり違和感がある。
70年代には、いま歩いている明大通りからもニコライ堂のドームが見えたという。その頃は、低層の古い建物が多かったのだろう。雀荘や古本屋、喫茶店、学生相手の薄利な商売を営むにも手頃な家賃と規模……その眺めを想像してみれば、違和感はなくなってくるのだが。
そういえば、昭和52年(1977)までは、中央大学がニコライ堂の近くにあったんだよなぁ。その前身となる英吉利法律学校が創設された明治18年(1885)当時は、70年代よりもさらに周辺の建物が低かったろう。駿河台は本郷台地南端の地。
戦時中に作られ、同校で歌い継がれる『惜別の歌』の歌詞(島崎藤村の「高楼(たかどの)」に基づく)が、しっくりとくる眺めだったと思う。たぶん。
御茶ノ水・神田の界隈は、明治法律学校(現明治大学)、日本法律学校(現日本大学)、専修学校(現専修大学)、東京法学院(現中央大学)、東京法学校(法政大学)、東京商業学校(現一ツ橋大)など、現在の有名大学の発祥となる学校が数多く集まった場所だった。明治時代中期にはその数が100以上。全国から学生が集まるようになる。“学生街”といえば、まず誰もがこの界隈を頭に思い浮かべたという。当時の流行歌『神田小唄』(歌:二村定一) にも、その様子がうかがえる。
『風に吹かれて』(1963年)
学生運動の熱気が冷めた頃、ボブ・ディランが世に知られる
戦後になってからもしばらくは、そのイメージが強かったようだ。御茶ノ水時代の中央大学を知る人なら「神田カルチェ・ラタン闘争」というキーワードがすぐに思い浮かぶだろう。
昭和43年(1968)6月、ベトナム戦争に反対する学生たちによって中央大学が占拠された。付近の道路がバリケードで封鎖され、突入してくる機動隊から“聖地”を守るため激しい戦闘を繰り広げた。
カルチェ・ラタンは、パリのセーヌ川左岸にある大学や研究施設が集まる学生街。同年の5月、ここで学生たちが蜂起する五月革命が起こっている。それから約1カ月後に、
「この地を日本のカルチェ・ラタンにせよ」
というスローガンのもと、五月革命に触発された学生たちが続々と中央大学の中庭に集まり、この騒ぎを起こした。
この界隈は日本のカルチェ・ラタン。当時の大学生にはその認識があった。だから、闘争の象徴にまつりあげられたのだろう。
御本家パリのカルチェ・ラタンには、道沿いにカフェテラスが点在する。街路樹の下に並ぶテーブルで、学生たちが本を読み耽り、小難しい会話に熱中する風景があった。
そして、日本のカルチェ・ラタンにも……70〜80年代の地図を見れば、明大通りには「ジロー」「田園』」「琥珀」「丘」などと、多くの喫茶店の名が記されている。『学生街の喫茶店』が流行ったのはこの頃。すでに闘争の熱気は消え失せ、学生たちの政治への関心は薄れていたのだが。
『学生街の喫茶店』の歌詞にでてくるボブ・ディラン。彼の代表曲『風に吹かれて』は1960年代、アメリカの反体制集会でよく合唱されたという。熱かった時代の愛唱歌。しかし、それが日本で流行るまでに10年程度のタイムラグがあった。
70年代の喫茶店では有線放送のBGMでよく流れていたはず。
額に青筋浮かべシュプレヒコールを叫ぶ。その必死さが、滑稽でかっこ悪く映る。そう思っている学生たちも、喫茶店の片隅でぽや〜んと弛緩とした時を過ごしながら、この曲を聴いただろう。
カルチェ・ラタン闘争を経験した世代と、しらけ世代では、同じ場所で同じ曲を聴いても、そこに感じる思いは違う。それを共有できないもどかしさ。時は流れた。と、悟るしかない。
いまどきの学生街は、スマホのなかに存在する
さて、明治大学の脇から明大通りと交差するゆるやかな坂道、とちの木通りに入ってみる。
70年代頃は“マロニエ通り”の通称で呼ばれることが多かったという。歩道の植えられたマロニエの街路が、パリの学生街カルチェ・ラタンを連想させるのだとか。
このマロニエ通りにも、かつては何軒も喫茶店があった。そのなかのひとつ「LEMON」という店が当時は『学生街の喫茶店』のモデルとして、最有力候補だったという。現在でもネットでは、そのような書き込みが見つかったりもする。
その場所には現在、喫茶店ではなくイタメシ屋が立っていた。店名は同じだから、時代にあわせて商売替えしたのだろうか? 店内にはランチタイムの背広姿のサラリーマンやOLの姿が目立つ。学生街の喫茶店というよりは、オフィス街のレストランってな感じか。
しかし、マロニエの枯葉舞う街路は歌詞にある眺めと同じ。屋外に設置されたテラス席は、タバコの煙に澱む喫茶店の狭い客席よりカルチェ・ラタンな雰囲気だけど。どうひいき目に見ても70年代頃の学生街の喫茶店とは、かけ離れた感が否めない。そこには錯覚や妄想の入り込む余地すらない。
もはや、あの時代は明治時代や江戸時代と同じなのだろう。書物や映像でしか見られない“歴史”なので、街で出合えるものではない。諦めたほうがいい。
いまはSNSで交友関係は広がる。大学周辺の狭いエリアにこだわらない。講義が終われば学生街を素通りして帰ってしまう。友達と語るにもわざわざ喫茶店にでかける必要はない。LINEがあれば事足りる。
現代の学生街、それは、スマホの中に存在しているのかもしれない。
さらに「時は流れた~」、か?
取材・文・撮影=青山 誠