足利将軍家の跡目は、双方同意だった?
さて、前編にて応仁の乱とは将軍・義政様の後継を巡って、弟の義視(よしみ)様派と嫡男・義尚(よしなお)様派の争いであると説明いたした。
一般に、あるいは表向きには応仁の乱の流れは大まかにこういった認識であった。
この説明は間違っておらぬ。
間違ってはおらぬのじゃが……これは実情をいまいち掴み切っておらぬ解釈であるのじゃ。
一度、義政様の後継に義視様が定められたところまで話を戻そう。
後継を義視様と定められた、その少し後に義政様待望の嫡男・義尚様がお生まれになる。
そして我が子である義尚を将軍にと望んだ義政様の正室・日野富子様が、山名宗全殿に働きかけ、義視様の後見人・細川勝元殿と争ったとしたわな。
じゃが実はここではさして争いの火種となるようなことは起こっていないのじゃ。
というのも義尚様がお生まれになったとて、政に携われるようなるにはかなりの時間がかかる。
義政様は早く隠居したいと考えられておったで、義視様が義政様の後を継ぎ、後に義尚様へ譲るのが都合良かったのじゃ。
この考えは、義政様はもちろん山名も細川も富子様も同意されておったようじゃ。
更に宗全殿と勝元殿、実は舅と娘婿の関係でもともとは協力関係にあったのじゃ。
では、山名と細川が衝突した本当の理由は何なのか!
その真相に迫って参ろう!
山名と細川が衝突した本当の理由は何なのか!
ここで登場人物の追加じゃ。
三管領が一家にして、山名・細川に次ぐ実力者、畠山家である!
「三管領」という言葉は皆々も学び舎で聞いたことがあるであろう?
管領というのは将軍を補佐する役職で、細川勝元殿の細川家、畠山家、斯波家の三つの家が交代して勤めることになっていた。交代制なのは権力の集中を防ぐ為じゃな。
ちなみに山名宗全殿の山名家は「四職」の家柄じゃ。侍所といって、室町幕府では警察のような仕事を担った役どころで山名家以外にも京極家、赤松家、一色家が交代で担当しておった。
さて、そんな畠山家は応仁の乱の20年ほど前から家督争いを起こしておった。
当主・畠山持国殿は子がいなかった為に、弟の持富殿を後継にしたのじゃが、その後に出来た子・義就(よしひろ)に後を継がせようと持富殿を廃嫡した。
……どこかでみたことのある構図じゃな。
じゃが、畠山家の家臣団はこれに反発。家が二分する騒動に発展したのじゃ!
廃嫡された持富殿は早くに亡くなり、持富派の家臣たちは、その子の政久殿を擁立した。じゃが、当主の持国殿が政久派の重臣・神保国宗を殺害、結果、政久殿は畠山家を追われることとなった。
そんな政久殿を助けたのが山名宗全殿と細川勝元殿である!
反対に持国殿の屋敷を襲撃し持国殿を隠居させると、嫡子であった義就殿は京から逃げて、政久殿が家督を継ぐこととなった。
畠山持国殿が当時大きな権力を有していたこともあって、山名と細川が協力して持国殿を抑え込んだわけじゃな。
何度も襲来する畠山義就
さて、両家の力をかりて畠山家当主となった政久殿。
しかし、わずかその三カ月後に義就殿が軍を率いて京の都に襲来、政久殿は再び当主の座から追われることとなってしもうた。
当主となりはしたものの、勝手な振る舞いを見せる義就殿を、将軍・足利義政様と細川勝元殿はよく思っておらんかったのじゃが、反対に山名宗全殿は義就殿と親交を深めていった。
そして義就殿が当主となってから五年ほど経った頃、政久派の家臣を弾圧するなど横暴を繰り返す義就殿に対し、遂に憤った義政様が畠山家の家督を退くことを命ずる。
義就殿は朝敵となって数年の戦の末、京の都を追われることとなったのじゃ。
畠山の次の当主は政久殿が亡くなっていた為に、その弟の政長殿が定められ、次いで管領に任ぜられた。
……のじゃが!!
何と政長殿が管領となった次の年、再び義就殿が挙兵し都に入るのじゃ。
更に此度は将軍・義政様によって政長殿が管領の立場から退けられて義就殿が当主と据えられたのじゃ。なぜこうなったか……というと紆余曲折あったのじゃが、まぁ政長殿からすればたまったものじゃないわな。
憤った政長殿は兵を集めると上御霊神社に入り、堀を築くなどして守りを固めたのじゃ。
京を舞台に睨み合う両者、そして幕府の権力者たちが肩入れする側へ援軍を派遣したことで都は一触即発の空気が流れ始めるのじゃ。
応仁の乱の前哨戦、上御霊の戦い
この時、政長殿の側についたのが細川勝元殿、義就殿の側についたのが山名宗全殿である。
義就殿は将軍の住む花の御所に布陣しておって、将軍や御所で政を行う大名達を人質とできる有利な状況であった。
政長殿はこれに対抗し、朝廷に近い上御霊神社に陣取ることで万が一の時には帝を自軍に引き入れる算段であったようじゃ。
この緊迫した状態に危機感を抱いた足利義政様が「畠山家の家督争いに介入してはならぬ」と御触れを出した。
細川家は命に従って軍を引いたのじゃが、義就殿を支援する山名家はこの命令を無視。そして1月18日、遂に義就軍が政長軍の篭る上御霊へと攻撃を仕掛ける。前回の戦国がたりで紹介した、山名家と細川家による応仁の乱開戦の四カ月ほど前の出来事である。
政長軍は寡兵で奮戦するのじゃが、山名をはじめとした多くの援軍と共に押し寄せる義就軍には敵わず逃げ延びていった。
この勝利で義就殿を支援した宗全殿らの勢力は発言力を増し、反対に幕府からの命令に従った結果、支持しておった政長殿が失脚した勝元殿の面目は丸潰れ、細川家は失脚した形となって、政からは遠ざけられることとなってしもうたのじゃ。
そしていよいよ我慢の限界に達した勝元殿が兵をあげたのが、5月26日というわけなんじゃな。畠山家の家督争いは山名や細川の権力争いの一部であったとも言えよう。
細川と山名、なぜ険悪だったのか?
両家が何故、日ノ本最大級の大戦を起こすほどに険悪な関係となったのか。これにもたくさんの事情があるのじゃが、主とされておるものを紹介いたそう。
長く管領を務めておった勝元殿は、将軍家の意向を汲みながら政を行っておった。
この勝元殿の姿勢を将軍の言いなりであると宗全殿が嫌っておったようじゃ。
更に幕府へ不満を持つ諸大名の怒りの矛先が管領である勝元殿に向いたことで、反勝元の勢力の長に宗全殿が自然と収まったという見方ができるわけじゃ。
他にも子がいなかった勝元殿は宗全殿の子を養子とし後継に定めていたのじゃが、その後に子が生まれた為、宗全殿の子を廃嫡するという、これまたよく見た不仲の原因もあったりも致す。
畠山持国殿のような共通の敵がいたうちは仲良くできたが、お互いの勢力が大きくなるにつれて邪魔になってしまったということじゃな。
終いに
気づけば此度の戦国がたりも随分と長くなってしまったが、まだ応仁の乱の始まりにしか触れられておらぬ!
故にまだまだ話して参りたいのじゃが、 ただでさえ難解な応仁の乱じゃ、いっぺんに語ると難儀するであろう。
故に!
今回の後編はこの辺りで終いと致し、 番外編として、次こそ、戦の中の部分や織田家についての話を紹介して参るぞ!
「前編と後編で紹介いたす!」と言っておったが、朝令暮改と参ろうではないか。
此度の多くの人物が登場いたした。混乱した者は何度も読み返し、次回の公開を待つが良い!
それでは次の戦国がたりで会おうぞ。
さらばじゃ!
取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)