「ラオ屋」とはなにか、わかりますか?

この前、ある年寄りが「らおやんとこの息子がこれがすごいやつでな」と私に話してくれたことが記憶に残っているんです。ラ・オヤント・コノ……何語? と思われそうですが、れっきとした我が国の言葉。「ラオ屋んとこ」と、お爺さんは言っています。「ラオ屋」(羅宇屋)とは、キセルの竹製パイプ部分(ラオまたはラウ)に詰まったヤニを掃除・交換する江戸以来の仕事。戦後の街にもキセルを使う人はまだわずかにおり、こういったなりわいのお店が残っていたことがうかがい知れます(もしかしたら慣用的に使っていた言葉のみが消えずに残り、単にタバコ屋を指していた可能性もありますが)。興が乗って話し出してくださったお爺さんに、「それって何ですか?」と腰を折ったら、リズムを崩してしまうでしょう。

古老の語る昭和説話には、小道具としてタバコが出てくるケースは実に多いものです。こういうことは知識として知っていたほうがいいな、と思ったものですが、体感としても分かっていたほうがいい話もあります。

体感的に知っているからこそわかるおもしろさ

2020年に亡くなられたコメディアン・俳優の小松政夫さんが、身振り手振り、形態模写を交えながら話した笑い話が忘れられません。と言っても昔テレビでチラっと見ただけで、細部は私の記憶違いもあるかもしれませんから許してくださいよ。

小松さんが昔、ある定食屋に入ると、作業ズボンをはいた大将が隣りの席につきました。「めし・大をひとつ」と一声発するなり瞑目する大将。腕組みして不動明王のよう。おかずは取りませんでした。ややあってドンブリに盛り切りの白飯がひとつ運ばれてくると、カッと目を見開き、おもむろに胸ポケットからタバコを一本引き抜きます。火をつけゆっくり煙を吸い、吹きだしたかと思うとなんとライスをかきこむ(!)。一口吸ってはかきこみ、を繰り返します。小松さんは静→動へ、頬を膨らませながらタバコを吸ったり吐いたりの模写をし、思いっきり誇張した大将をその場で再現しました。

これを年配の人がみて笑うのだと思いますが、我々はてっきり、タバコの煙をおかずにするというミスマッチさ、意外性が面白いのだと受け取ります。違います。年配者はそれを見て、「ああ、さもいそうだなそういう人」と、忘れがちな巷の日常を見逃さず模写している点を面白がるのです。とんねるずの番組でやっていた「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」みたいなものですね。

ケムリと暮らしが密着した時代のことを体感的に知っていないと、小松さんの狙いは理解できません。そしてこのような感覚は、その時代の人間の暮らしを見、肌で感じていれば瞬時にわかる種のものでありながら書物では伝え残しにくいものです。私は、都市部よりも古い習慣が残りがちな地方育ちの中年男。わずかにそこに想像が届きました。ただ、届かずに聞き流してしまっている話は無数にあるでしょう。現代の目に適ったものだけを知らず選びとって書きとってしまっているでしょう。

私たちはまだまだ、街の新参もん

それでもケムリとともに、かつての暮らしの気分も漂っている場所がまだわずかにあります。たとえば街角の喫茶店。ある時、ネットでこんな記事を見かけました。半世紀以上やっている、ある街の喫茶店を記事では推していました。店内、調度品、店主のたたずまいなど絶賛する記事。ところがタバコ臭いことに苦言を呈していました。

喫茶ブームなどが来るよりはるか昔に創業したその店は、右肩上がりの高度成長期に端を発し、華々しいバブル期も、沈滞する不況の時代も超えて現在に至っています。長年の店の経営を支えたのは、プカプカ紫煙をくゆらせながらおしゃべりしたり、ぼんやりしたりを楽しみに日々通ってくる近所のおっちゃんやおばちゃん達。臭いを付けるにとどまらず、ヤニで壁紙を黄色く染めてきた張本人たちです。SNS時代、昭和の純喫茶は人気で「いいね」ももらいやすいですが、「昭和感が最高だけどタバコの匂いが厳しいので★マイナス1」などと書き込む直前、どうか一度、その人々の日常生活に想像力を使ってみてください。投稿者さんも、私も、まだまだ街の新参もんじゃないですか。

文・写真=フリート横田
*記事中の写真は、本文とは直接関係ありません。