大正6年から続く画材店『月光荘』が原点に立ち返る、開かれたサロン
かつての『月光荘』は文壇や画壇、政財界から人が集うサロンでもあった。
しかし2013年に『月のはなれ』ができるまでの30年ほどは、ギャラリーの運営は続けていたが、アート関係者以外の人々も集えるようなサロン的な要素は影をひそめていた。
『月のはなれ』を開いたのは、3代目の店主で創業者の孫に当たる日比康造さんだ。音楽家としての顔を持つ日比さんは、学生時代から家業に関わり、月光荘に出入りするたくさんの芸術家と関わる中で、ものづくりにおいて大きな影響を受けてきた。いよいよ2代目の母から店を引き継ぐにあたり、『月のはなれ』のオープンを決意する。「感性と人の交差点」としてのサロンをもう一度復活させることが『月光荘』を育ててくれた銀座への恩返しにもなると考えたのだ。
『月のはなれ』では、ガンボに代表されるクレオール料理を出している。日比さんが若い頃アメリカはニューオリンズで過ごしたときに好んで食べていた料理だ。「銀座は一流の人たちが勝負をかける場所。中途半端なものを出すわけにはいかないけれど、クレオール料理なら僕が歩んできたリアルな人生の中にあったものだから」と話す。
やみつきプルドポークライスもガンボに並ぶ人気メニューだ。特製バーベキューソースで味付けされたプルドポークの味は甘みとスパイシーで、ボリュームもある。野菜とご飯がたっぷり入っていて栄養のバランスもいいので、忙しく働く人たちの食事にもってこい。
レモンが丸ごと練り込まれている月のレモンケーキも名物だ。ふんわりとやさしい生地の中にすり下ろしたレモンピールがたっぷり。ハンドドリップで丁寧に入れたコーヒーとの相性もいい。甘さが控えめなので、お酒と合わせて食べる人も少なくない。
100年の歴史が見守る中で生まれる新しいカルチャー
『月のはなれ』があるのは、もともと画材の倉庫として使われていた場所だ。どうやったら人の行き交うサロンとしてこの場を活かせるか思いを巡らした結果、面積の約半分をルーフトップにした。築50年近い自社ビルの最上階にあった壁を壊したのだ。大胆な発想のおかげで天気がよければ気持ちよく銀座の青空を拝める。
インテリアはヨーロッパのカフェやパブを手本にしている。フランス製の本物のラタンの椅子が囲んでいるのは、『月光荘』で大正時代から使われていたテーブルだというから驚く。『月のはなれ』自体はまだ10年足らずだが、『月光荘』が持つ100年あまりの歴史に知らず知らずのうちに触れられる場所になっているのは、ロマンチックだ。
『月のはなれ』は、母体が画材店だけあり、2週間ごとに若いアーティストたちの作品が展示されている。お絵かきセットとして、店備え付けの画材と持ち帰れるスケッチブックが用意されていて、昼間は子どもたちを中心に、夜になるとお酒が入って童心に返った大人が夢中で絵を描く姿も見られる。
同時に毎晩のようにさまざまなジャンルの生演奏が行われている。チケットやミュージックチャージがあるわけではなく、店の考えに共感した音楽家による上質な生演奏が目の前で楽しめる。『月のはなれ』に登場するアーティストたちは、美術・音楽ともに大きな舞台で活躍している人も多い。
「色感と音感は人生の宝物。これは創業時からの『月光荘』の理念で、うちのじいさんが言っていたことです。画材屋なのに色だけでなく音もモットーにした明確な理由は、今となってはわからないのだけど」と日比さん。アート、音楽、おいしい食事と飲み物。カルチャーはいつの時代も影響しあって生まれるものなのだろう。
「『月のはなれ』にとって58段の階段は、頭を下げて入り、視線を上げれば別世界となるお茶室のにじり口に似た役割だと思っています。『月のはなれ』に来たら属性やバックグラウンドをいったん忘れて、アートや生演奏などの生きた文化に身を浸し、ちょっとした非日常で心身共にリフレッシュしてもらえたらと思っています」
年齢も肩書きも、考え方も財布の中身も関係なく、色と音の前では誰でも平等というのが『月のはなれ』の基本姿勢だ。おひとり様はもちろん、小さい子どもを含めた家族で訪れる人もいれば、80代の年配者が訪れることもあるという。客層も学生から会社員、経営者、アーティストと幅広い。
「銀座は、敷居が高く近寄り難いとか、どうしてもお金がかかるイメージがありますよね。でも、そこにはそれ相応の理由があること、そしてそれだけではない下町としての銀座の人情味ある楽しさもお届けしていきたいと考えています」と日比さんは話してくれた。
銀座の表通りから一本入った場所にあるのは、誰もが気軽に足を踏み入れられる店ばかりではない。でも買い物や観劇に訪れたあと、いつも通りのルートで帰ることをもったいなく感じる人も多いだろう。もうひとつだけ知らない何かに出合いたいと思ったら、まずはコーヒー1杯から『月のはなれ』に向けて階段を上ってみるのもよさそうだ。
/定休日:無/アクセス:JR・地下鉄・ゆりかもめ新橋駅より徒歩3分
取材・文・撮影=野崎さおり