喫茶店みたいな、くつろぎの居酒屋
神保町。古本屋と古本屋のあいだに焼肉、ラーメンなど飲食店が挟まるにぎやかな白山通りを抜け、路地に入ると雑居のオフィスビルだらけになる。うう、1月のビル風はからだの奥のほうを冷やすなあ……と、Googleマップで取材先のピンの位置に着くと喫茶店があった。あれ? 間違えた? 調べるとやはりここで合っていそう。うーん?
お店の方に声をかけてみると、あ、暖簾(のれん)出しますねと「Coffee 潤」の下に「酒」の暖簾がかかった。
おお、不思議な光景。ここが本日の店『笑酒(えぐし)』だ。
そこへ櫻井さんが到着。彼の笑顔を見るとなんだか安心する。保育園へ子どもたちを送って仕事を済ませてきたよと言い、店主と挨拶を交わしながらスムーズに生ビールを注文、料理を選びはじめた。
写真でわかるとおり、ログハウス調の店内はまるで軽井沢あたりの喫茶店。酒よりも焙煎コーヒーが出てきそうだ。店主の澤田昌也(さわだまさや)さんに聞くと「もともと母がここで喫茶店をやっていて、僕が間借りして居酒屋をはじめたんです。今は母がやめちゃって居酒屋だけ残ってます」とのこと。
なるほど〜。そうは言ってもカウンター奥には酒瓶がぎっちり並んでいて、やはり居酒屋なのである。喫茶店の雰囲気がすきで酒もすきな人はけっこう多い気がする(私もそうだ)から、そういう人はかなりくつろげる空間だろう。
澤田さんのほがらかな感じと、木に囲まれた室内。寒いところからやってきたのもあり、なんだか雪山でも登って山小屋にたどり着いたようなあたたかみがある。
飲み屋で知り合って『笑酒』が行きつけに
仕事のお客様からプライベートの友人まで、公私を問わず飲み会には基本的に『笑酒』を使うという櫻井さん。ここを訪れたきっかけは?
「前にここから1分くらいのとこに住んでて、当時近くにあった赤提灯のやきとり屋に通って飲んでたら、いろんなお客さんと仲良くなって。澤田さんもたまに来てて知り合ったんですね。澤田さんがここで店やってるっていうから来てみたのが最初。そのやきとり屋がなくなっちゃって、そこで友達になった人たち、今はみんなここに来てる(笑)」
コロナ禍で『笑酒』が閉まっている間も、サウナ好きな澤田夫妻と一緒にサウナ通いをするなど親交がつづいた。そんな櫻井さんのことを澤田さんは「“人たらし”ですよ。みんなやっくん(櫻井さん)のことすきになっちゃうんだから」と笑う。
と、ここでお通しが届いた。本日のお通しは、粕汁、穴子ときゅうりのう巻き、れんこんのきんぴら、菜の花の昆布締め。小さな器に盛りだくさん!
撮影しながら、撮られるのはずかしいですか? と聞くと櫻井さん、「はずかしいけど、人に見られるのきらいじゃないから!」。いやーわかる。わかるなー、みんながすきになっちゃうの。このなかなかできない素直すぎる回答、これが“人たらし”。
酒を飲んでたら仕事が入ってくる!?
ここから、おいしい酒のあてがどかどかやってくる。弁護士のお仕事ばなしを聞きながら、料理の数々を楽しみますよ! 櫻井さんはビールをおかわりした。
彼は今、弁護士法人とパートナー契約をして半独立の状態で働いている。主な顧客はベンチャー企業。これから上場を目指すような会社の法的なサポートをしているそうだ。
「前は上場直前のIPOをサポートする事務所にいたんだけど、そこにお願いしに来るお客さんって、けっこうボロボロの状態なんですね。お金を作るためにいろんなことをないがしろにしちゃってて……だからもっと前を対処してあげたくて、自分でやることにしました」
入り口の価格をかなり安く設定し、まずは気軽に相談できるようにした。弁護士が何をしてくれるのか、それにどんな意味があるのかを理解してもらってから、必要なサポートを受けてもらうようにしているという。
今のところ会社を起こす気なんてさらさらないのだが、私も何か困ったらまず櫻井さんに相談したい。そう思わせる包容力と気負わなさがある人なのだ。実際、新しいお客様はどうやって見つけているのだろう?
「起業して自分でなにかやろうっていう人どうしは結びつきが強いから、一社としっかり仕事をして頼んでよかったと思ってもらえたら、この人いいよって紹介してくれる。みんな、やさしい(笑)。それと、実は今の弁護士法人に入ったきっかけも飲み屋なんです。飲み屋で知り合って仲良くなった人の紹介がきっかけで」
だいすきな酒を飲んでたら仕事がどんどん入ってくる……なんてことなの! もちろんそこには彼の信頼できる仕事ぶりがあってこそだが、嘘でも大げさでもなく本当にすべて、知り合った人からの相談や紹介で成り立っているらしい。櫻井さんの“人たらし”は仕事まで掴んでしまう。
「この厚切り感がすき。うまい!」と櫻井さん。話の合間に澤田さんが料理をたっぷり出してくださり、どれもおいしくて手頃な価格だ。メニューに悩みがちな方は、ここに来たらすべておまかせしてしまってもいいかもしれない。
育児全般を担当、パパ友よりママ友のほうが多い
さて、櫻井さんは4歳と1歳の男の子の父だ。そして奥様はなんと裁判官! 裁判官は全国転勤のある職業で、以前は新幹線通勤が必要な日もあったというから驚きだ。現在も長距離通勤をしているとのこと。そんな奥様と暮らしているのだから、櫻井さんが平日の育児全般を担当する。
「朝ごはん食べて保育園送って、日中は仕事。18時半にお迎えして3人で晩ごはん、風呂入れて、遊んで……それで一緒に寝ちゃって、深夜2時とかに起きてそっから仕事したりとか。でも奥さんが早めに帰ってくる日は子どもがもうママにベッタリ」
聞いていて、うわあ……としか声が出ないハードすぎる毎日。男の子ふたりの育児をしながら、弁護士の業務を昼と深夜に挟んでいく。うーん、とにかく体力がすごい。
「でも子育ては楽しい! やっぱり子どもがかわいくて。知り合いの子持ちの男性と話してると『奥さんに会わせたくない』って言われる。奥さんが、お前ももっとやれよってなっちゃうので(笑)。仕事柄、会社の社長とよく話すけど、奥さんにすべて任せてる人がやっぱり多い。保育園の送迎含め基本的にすべてやってるから、おれ、パパ友よりママ友のほうが圧倒的に多いんです」
さすがに飲みに出る頻度はかなり落ちた。でもふだんそういう生活をしている代わりに、飲みにいく日はどんなに帰りが遅くなっても誰からも文句を言われない。一回飲みにでたら朝5時くらいまで飲んでるかな、と笑いながら、ビールを終えて次は日本酒を追加していた。いやあ、やっぱ体力あるなあ……。
笑いながら酒を飲む“人たらし”の行きつけ
「千代田区は住んでる人もいいし、すごく子育てしやすい環境。できればずっと住みつづけたい」と話す櫻井さん。その後も人がいい、みんなやさしいとしきりに言っていたが、周りにいる人がいいのは、彼の人柄によるものでもあるだろう。
櫻井さんは飲みながら、食べながら、話しながら、ずうっと笑っていた。『笑酒』の客としてふさわしい人だ。取材を終えても、お迎えの時間までもう少し飲んでっていい? と澤田さんに言うのだから、この人はとことん“人たらし”だなあと感心するばかりである。
風が吹きつける神保町の冬にまた放り出されてしまったけれど、からだは弾むように軽い。穏やかな澤田夫妻が営む喫茶店みたいな居酒屋のおいしい酒と料理、櫻井さんの笑顔と飲みっぷりに、すっかりあたためられていたのだった。
取材・文・撮影=サトーカンナ