「ことば」は出来事の端っこ!?
小野先生 : 「ことば」は、奈良時代には用例がみられますが、実際にはそのずっと前から日本にあることば(和語)だと考えられます。
「言葉」と書くのは当て字。「葉」を当てることで、木の枝に葉が茂っているイメージを、たくさんの「ことば」と重ね合わせたのだ、という説があります。
ただ、語源的には「言端」、もっと言えば「事端」のほうが、正しくとらえられると考えています。
「事」(出来事)は、「言」(話すこと)と密接な関係があります。自分が目にした出来事、もっと言えば心のなかで思った事は、言わなければ、それが起こらなかったことになってしまう可能性があります。
筆者 : うーん、なんとなくわかる気がします。例えば、仲が良いと思っていた友だちが、裏切り行為をしたとします。知らないところで悪口を言っていたり、恋人にちょっかいを出していたり……。
それを口に出して咎めてしまうと、裏切り行為がふたりの間で共有され、事実としてはっきりとしてしまいます。口に出した時点で物事が動き出し、ケンカになるかもしれないし、もう以前のような関係には戻れなくなります。
「ことば」にしなければ、少なくとも表面上は何事もなかったかのように、仲の良い友だちでいられたのに……。
小野先生 : なるほど、おもしろいですね。「ことば」は出来事を顕在化しますね。
恨み言や愛情が「口をついて出てくる」という表現がありますね。積年の不満、あるいは好意があふれるように、「ことば」が自然と出てくるわけです。
実際には存在している「事」はぼう大な氷山のようなもので、人が直接触れる「ことば」は、海面に出た一角のように小さな「先端」なのでしょう。
筆者 : 「ことば」の本意は出来事の先端、「事端」ということですね。
「ことば」は重い。しかしその種類は変わっている!?
小野先生 : それだけに、「ことば」は重いものですよ。言ったとおりに行動する「有言実行」の人は、尊敬の対象になります。
反対に「不言実行」または「沈黙は金なり」とも言います。以前だと、軽々しく「ことば」に出さないことが良しとされていたこともあります。
筆者 : 特に男性には、そんな美徳が求められたように思います。寡黙でシャイ、ときに不器用だけれど実直な高倉健さんのような男性、憧れた人は多かったでしょう。
小野先生 : 父親が家族を統率する家父長的な価値観が残っていたのでしょう。画一的で小さなコミュニテイのなかでは、口に出さなくても意図が通じる関係性が好まれました。しかし、これからの時代は、そうも言っていられなくなります。
筆者 : 多様性の時代ですね。世界中の文化や考え方が入っていますし、スマホやSNSが浸透して、テレビ番組などみんなで共有する情報や話題が少なくなりました。
小野先生 : 世代間の違いも広がっているでしょうね。さまざまな価値観が共存する社会では、「ことば」ではっきりと物事を示さなければ、意思疎通ができません。
多様な出自、人種の人が国をつくってきた、米国流の文化とみることもできます。日本でも多様性が高まるなか、いわゆる「コミュ力」(コミュニケーション能力)、あるいはプレゼンテーション能力が、求められています。かつてと違った意味で、やはり「ことば」は重いのです。
筆者 : 改めて「ことば」を見直して、今まさに過渡期にあることを実感します。
だからこそ、「出来事の端っこ」としての日本的な「ことば」の役割を理解することが、大切だと感じました。
小野先生 : 物事のすべてを「ことば」で表現しようとすると、とんでもない時間と労力がかかってしまいます。
明快なコミュニケーションしているときほど、物事を「ことば」で単純化していることに気づけると良いでしょう。伝えきれないこと、理解できないことがあるという前提に立てば、価値観の違う相手にも寛容になれます。
まとめ
日本語には中国からの外来語「漢語」が多くあるが、「ことば」は日本古来の「和語」。それだけに日本人独特の感覚が、込められている。
「言葉」と書くのは当て字で、本来は「言端」、語源的には「事端」が適切。「ことば」はいわば氷山の一角で、ぼう大な「事」(出来事、事実)を短い音声や文字で表す「先端」に過ぎない。
かつては、軽々しく口に出さないことが「ことば」の重みであったが、社会の多様化が進む現代では、価値観が違う人にも伝わる明確な「ことば」が求められる。
取材・文=小越建典(ソルバ!)