今、消えようとしている山王小路飲食店街

コロナ禍中、アーチだけが煌めいていた。この階段を下りれば心躍ったものだったが……。

「あなた、こういうの好きでしょ」 と、とある店のママが昔、私に地図を見せてくれたことがある。ママのスナックを含む飲み屋街一帯の手描き地図だった。家主の名や商店の屋号が入った、一種の住宅地図だ。清水が湧いていた一角や大地主の地所の範囲など、記録に残りにくい、細々した土地の記憶が書き入れられている。地元の古老が記憶を頼りに作ったものという。お見せしたいが、もちろん勝手には載せられないからご勘弁を……。

私はこの種の地図を今まで何度か見ている。いずれも古い飲み屋の片隅で眠っていた。土地の過去を知る人が交錯する場所ならではのことかもしれない。生き字引にして記憶明瞭な常連の古老が置いていくのか。ママにいいとこ見せようとしたのかな。

複数枚ある地図の一枚に「昭和疎開時代」「昭和18年」と書き入れたものがあった。まっさらな空き地が描いてある。戦中、空襲火災の延焼防止のため周囲の建物を壊しておく強制疎開が行われたことが見て取れる。そこに終戦直後にできたのが本日の舞台、前述ママの店もある「山王小路飲食店街」なのだ。

スナックを中心に約40軒の店が並ぶ路地を進む。知り合いの店も休んでいた。

久々に歩いてみたが……。コロナ下、老練の飲み屋街は眠り続けていた。
山王、と呼ばれた大森駅前の高台にある高級住宅地から地名を拝借しながら、自身はうってかわって急激に傾斜した坂と階段を下りきった地の底にあるこの盛り場。終戦後、駅前の池上通りに並んだヤミ露店街がここに移転してきたとも、元は石炭カスを捨てる原っぱにバラックが立ち並んだとも聞く。どちらにせよ70年以上、人を癒やし続けてきた酒場通りである。
私も酔っ払いたちの声が吹き溜(だ)まる谷底で飲むのが好きだった。ただし酔いすぎると危ない。昔は土手を、今なら急階段を上れなくなる魔の谷なのだ。地元では皆、「地獄谷」 と呼ぶ。

飲み屋街から広場へ?

筆者撮影。

ここが今、消えようとしている。大森駅西口にはロータリーはない。バスもタクシーもきゅうきゅうに連なり、池上通り沿いにバス乗り場を分散させてはいるが、乗客は放置自転車の並ぶ狭い歩道で待ち、間を縫うようにチャリンコが走り抜けていく。気まぐれに飲みに行く私はあのゴチャついた感じがたまらないが、住んでる人たちにとっては確かにこの状況は……。

だから通りを太くするのに合わせ、地獄谷も整備しようというわけだ。通りは都道なので東京都が、地獄谷一帯は大田区が担当する、共同の都市計画事業が動き出している。区に取材したところ、やりたいと声をあげたのはデベロッパーでも行政でもなく、該当地の権利者たちだったそう。地元の声か。谷の上に広場を作ったり、谷底にはにぎわい空間を作ろうという声が優勢のようだ。私が言う筋合いじゃないが、にぎわいは谷底にあるよ。今は眠っているけれど。どうにか生かす手は、ないのかな。

東京は土地が古い姿のまま歳(とし)を取るのを好まない。いつでも生まれ変わらせて、新しい価値を作ろうとしたがる。今、私にできるのはその意志に抗うより、頭のなかにあの路地を刻みつけること。いつか生まれ変わった街で飲む夜に、いつでも地図を走り書きできるように。たとえ、どこかのママの気を引けなくってもね。

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筆者撮影。

終戦翌年からの戦災復興の区画整理で駅東側はロータリーができたが、西側は基本的には手付かずだった。つまり戦後以来の課題を解決しようとしているのだ。ただ、ここ“地獄谷”には課題ともに育まれた飲み屋文化もあった(筆者撮影の写真参照)。都と区が進める計画は、年明けに都市計画決定されそうな流れだが、実際に路地に重機が入るまでには数年はかかるだろう。

筆者撮影。
筆者撮影。
筆者撮影。

取材 •文=フリート横田 撮影=加藤熊三
『散歩の達人』2021年10月号より